第18話 視えない人が、測る
紙は、思ったより高かった。
グロースマン商会の支店は、街の中央にある。石造りの二階建てで、この街で一番大きい建物だった。
店の者は、レンツ・ノルムの身なりを見て、値だけを言った。
「一束、銀貨二枚です」
「一束は、何枚ですか」
「二十四枚」
レンツは計算した。
銀貨二枚は、銅貨にして八十枚。一枚あたり銅貨三枚と少し。
板なら、屑をもらえば只だ。
「木の板と、どちらが安いですか」
「板でしたら、うちでは扱っておりません」
店の者は言った。
「ですが、紙は薄い。同じ場所に、板の百倍は積めます」
それは、その通りだった。
四千九百二十枚の板を積む場所は、シュミット工房にはない。
「その紙は、どこから来ますか」
「西の街道からです」
「この街では作れませんか」
店の者が、少し笑った。
「作れませんな。作り方を知っている者がおりません」
◇
帰り道、イルゼ・シュミットが言った。
「買わないんですか」
「今は買えません」
レンツは言った。
「銀貨二枚あれば、ふいごの吊り革が替えられます」
「あー……」
彼女は納得したような、していないような顔をした。
「じゃあ、板でやるんですか」
「板でやります」
レンツは言った。
「積む場所は、納屋を使わせてください」
◇
問題は、書く手だった。
四十一点を毎月測る。一日十点が限度なので、四日かかる。
その四日、レンツは他のことができない。
そして工房の道具だけではない。ホルスト工房が三十本、クヴァント工房が十九本、エーベル工房が十四本。頼まれているものを足すと、百点を超える。
毎月百点。
十日以上かかる。
「無理ですね」
イルゼが板を数えて言った。
「無理です」
「じゃあ、どうするんですか」
「渡します」
「渡すって、誰にですか」
「職人にです」
レンツは言った。
「ホルストさんは、音で順番をつけられます」
◇
ホルスト工房で、レンツは試した。
工房の吊り具、四本。
ホルストが弾いて、順番をつける。
レンツが視て、数を書く。
順番は、合っていた。
「だから言ってるだろ」
ホルストが言った。
「聞けば分かる」
「では、これはどうですか」
レンツは、納屋から持ってきた鉤を出した。
千切れたものだ。空、三十八。
「切れたやつか」
「はい。弾いてください」
ホルストが弾いた。
彼は、少し顔をしかめた。
「……鈍いな」
「はい」
「こりゃ駄目だ」
「では、こちらは」
レンツは、工房の吊り具の一本を指した。空、十七のものだ。
ホルストが弾く。
「これは生きてる」
「その二つの、あいだの音は分かりますか」
「あいだ」
「切れる寸前の音です」
ホルストが、しばらく黙った。
「……分からん」
彼は言った。
「駄目になったやつは分かる。生きてるやつも分かる。だが、そのあいだは分からん」
◇
これが、壁だった。
レンツの目は、九から四十七まで、連続して数を出す。
ホルストの耳は、「生きている」と「駄目だ」の二つしか出さない。
そのあいだの、どこで替えるべきかが分からない。
「レンツさん」
イルゼが言った。
「切れた鉤、たくさんありますよね」
「はい」
「あれを、全部弾いてもらったらどうですか」
レンツは、顔を上げた。
「二十四点」
「切れた音を、二十四回聞いてもらうんです」
イルゼは言った。
「そしたら、切れる音がどんな音か、分かるんじゃないですか」
◇
納屋で、ホルストは二十四点を弾いた。
一つずつ、時間をかけた。
レンツは、その横で数を読み上げた。
三十一。三十三。三十六。三十八。三十八。四十一。四十四。四十七。
ホルストは、数を聞きながら弾いた。
十を過ぎたあたりから、彼は目を閉じるようになった。
二十四点を弾き終わったとき、日が傾いていた。
「もう一度、生きてるやつを持ってこい」
彼は言った。
レンツは、工房から吊り具を外して持ってきた。空、十七。
ホルストが弾いた。
「……十七か」
「はい」
「なんとなく分かる」
彼は言った。
「三十を超えたのと、比べたらな。低くなってる」
「低い」
「音が低くなる。詰まってねえと、低く鳴る」
ホルストは鉤を置いた。
「今まで、駄目になってからしか聞いたことがなかった。二十四も並べて聞いたのは初めてだ」
◇
レンツは、それを書き留めた。
――比べる相手があると、分かるようになる。
彼自身が、そうだった。
六つのとき、硬さ六十八が何なのか分からなかった。百点集めて、初めて分かった。
ホルストも同じだった。四十年、一つずつ聞いてきた。並べて聞いたことがなかった。
「ホルストさん」
「なんだ」
「三十を超えたものは、分かりますか」
「分かる」
「では、うちの工房の道具を、月に一度弾いていただけますか」
ホルストが顔を上げた。
「なんで俺が」
「俺の目は、百点で四日かかります」
レンツは言った。
「あなたの耳なら、百点を一日で聞けます」
◇
ホルストは、断らなかった。
だが、条件を出した。
「タダじゃやらんぞ」
「はい」
「うちの三十本も、あんたがやれ」
「やります」
「それと」
彼は言った。
「弾いた結果は、あんたが書け。俺は字が書けん」
「線でいいなら、書けます」
レンツは言った。
「三本以上は危ない。二本以下は大丈夫。それだけ書いてください」
ホルストが、板を受け取った。
「二種類でいいのか」
「いいです」
レンツは言った。
「危ないものが見つかれば、俺が視ます」
◇
これで、仕組みが変わった。
ホルストが百点を弾いて、危ないものを選ぶ。
その中だけを、レンツが視る。
百点のうち、危ないのは十点もない。十点なら一日で視られる。
毎月十日かかっていたものが、二日で終わる。
「これ、すごいですね」
イルゼが言った。
「すごくありません」
レンツは言った。
「ホルストさんの耳が、元からありました」
◇
だが、三月目に、それは止まった。
ホルストが弾かなくなった。
レンツが工房へ行くと、彼は炉の前で仕事をしていた。板は壁に立てかけたままで、線が引かれていない。
「ホルストさん」
「……ああ」
彼は手を止めなかった。
「今月の、弾いていただけましたか」
「まだだ」
「いつごろになりますか」
「分からん」
ホルストは、鉄を打ちながら言った。
「悪いが、今月は忙しい」
◇
レンツは、待った。
五日待って、もう一度行った。
板は、そのままだった。
「ホルストさん」
「しつこいな」
彼は槌を置いた。
「あんた、俺が怠けてると思ってるか」
「思っていません」
「じゃあ、なんで来る」
「危ないものが、分からなくなるからです」
ホルストが、レンツを見た。
それから、板を指した。
「あれをやってる間、俺は仕事ができん」
「はい」
「百点弾くのに、半日だ。半日ぶん、金にならん」
「はい」
「一月目は、面白かった。二月目も、まあやった」
彼は言った。
「三月目になると、面倒になる」
◇
レンツは、答えを持っていなかった。
これは、技術の問題ではない。
半日ぶんの仕事を止めて、金にならないことをやる。それを毎月、何年も続ける。
自分は二十年やった。
だが、それは他にやることがなかったからだ。
ホルストには、仕事がある。弟子がいる。食わせなければならない。
「ホルストさん」
「なんだ」
「半日ぶんの銭を、お支払いします」
レンツは言った。
ホルストが、鼻で笑った。
「あんた、金あるのか」
「ありません」
「じゃあ言うな」
◇
その夜、レンツは納屋で板を並べていた。
仕組みは作れた。
ホルストの耳があれば、百点を一日で選別できる。それは証明された。
だが、続かない。
続けるには、誰かが半日ぶんの銭を払わなければならない。
誰が払うのか。
「レンツさん」
イルゼが納屋に入ってきた。
「ホルストさん、どうでした」
「断られました」
「え」
「正確には、断られていません」
レンツは言った。
「面倒だ、と言われました」
イルゼが、板を見た。
「……それ、断られてますよね」
「はい」
彼女は隣に座った。
「私、思ったんですけど」
「はい」
「あれ、ホルストさんが払うものじゃないですよね」
レンツが、顔を上げた。
「あの人、自分の工房の吊り具を弾いてるんじゃないです。うちのとか、クヴァントさんのとか、エーベルさんのとかを弾いてます」
イルゼは言った。
「助かるのは、私たちですよね」
◇
レンツは、しばらく黙っていた。
考えたことがなかった。
彼は、記録を只でやるものだと思っていた。二十年、只でやってきたからだ。
だが、荷馬車引きは言った。
――タダのもんは、信じられねえだろ。
そして今、ホルストは言った。
――半日ぶん、金にならん。
只のものは、信じられず、続かない。
「イルゼさん」
「はい」
「工房が三軒あります」
「はい」
「三軒で、半日分を割ったら、いくらになりますか」
イルゼが、指を折った。
「……一軒あたり、そんなに高くないですね」
「はい」
レンツは言った。
「一月に一度、銅貨を数枚ずつ出せば、ホルストさんは弾けます」
彼女は、少し笑った。
「それ、私が言いに行きます」
「頼めますか」
「頼まれます」
イルゼは立ち上がった。
「あなたが言うより、通ると思うので」
今回もお読みいただきありがとうございます✨️
レンツは、仕事を渡そうとしました。
彼の目は、一日に十点しか測れません。
毎月百点を測るには、十日かかります。
そこで、ホルスト親方の耳を使いました。
親方は、切れた鉤を二十四点、続けて弾きました。
四十年やってきて、初めてのことでした。
――比べる相手があると、分かるようになります。
一つずつ見ていても、良し悪しは分かりません。
並べたときに、初めて基準が生まれます。
そして仕組みができました。
親方が百点を弾いて、危ないものを選ぶ。
その中だけを、レンツが視る。
十日かかっていたものが、二日で終わります。
――しかし、三月目に止まりました。
理由は、技術ではありませんでした。
「半日ぶん、金にならん」
これだけです。
点検も、記録も、続けるには誰かが時間を使います。
その時間には、値段がついていません。
値段のついていない仕事は、いつか止まります。
人を動かすためには、お金、興味、愛情……どれかが必要です。
そして最後に、イルゼが大事なことを言いました。
「あれ、ホルストさんが払うものじゃないですよね」
助かるのは、弾いている本人ではありません。
その下を通る人たちです。
あなたの職場でも、未然防止活動をしている人がいるはずです。
しっかり、目を向けてあげてくださいね。




