第16話 決めなければ、始まらない
工房の道具は、四十一点あった。
梁。鉤の跡。滑車。木枠。炉。ふいご。金床。槌が七本。鏨が十二本。桶が三つ。火箸。やっとこ。
レンツ・ノルムは、五日かけて全部を視た。
朝のうちだけ。十点で切り上げる。板に書く。
「どうでしたか」
五日目の夕方、イルゼ・シュミットが言った。
彼女は前掛けを握っていた。
「四十一点のうち、危ないものが三つあります」
レンツは板を並べた。
「金床の据え付けの楔が、緩んでいます。中が割れています」
「……あれ、父の代からのものです」
「もう一つ。ふいごの吊り革が、二年分ほどしか残っていません」
「二年」
「はい。それと」
彼は三枚目を置いた。
「鏨が三本、頭が潰れかけています。飛ぶかもしれません」
イルゼは、板を見下ろしていた。
「……三つですか」
「三つです」
「思ったより、少ないですね」
「はい」
レンツは言った。
「あなたの工房は、道具の手入れがいいほうです。四十一点で三つは、少ない」
彼女は少し息を吐いた。
それから、こう聞いた。
「他の工房は、どのくらいですか」
「分かりません」
「え」
「比べたことがありません」
レンツは言った。
「四十一点で三つが少ないというのは、俺の勘です」
◇
その言葉を、彼は書き留めた。
――俺の勘。
二十年、彼はこの言葉を使ってこなかった。勘ではなく数で言うために、書いてきた。
だが今、彼は勘で言った。
なぜなら、比べる相手がいないからだ。
四十一点で三つが多いのか少ないのか。判断するには、他の工房の数が要る。ホルストの三十本は測ったが、道具は測っていない。
――基準がない。
同じ壁だった。六つのときに見た壁と、同じものだ。
硬さ六十八が良いのか悪いのか、分からなかった。あのときは三年かけて百点集めた。
今度は何点集めればいいのか。
◇
「レンツさん」
イルゼが言った。
「この三つは、どうすればいいんですか」
「替えてください」
「全部ですか」
「はい」
「いくらかかると思ってるんですか」
彼女は言った。声に棘があった。
「金床の楔って、据え直しですよ。三日は仕事が止まります」
「はい」
「その三日、うち、何も稼げません」
「はい」
「じゃあ」
イルゼは言葉を切った。
それから、静かに聞いた。
「その楔、いつ壊れるんですか」
レンツは、答えられなかった。
「分かりません」
「明日ですか」
「分かりません」
「十年後かもしれませんよね」
「かもしれません」
彼は言った。
「ですが、割れは進みます。止まりません」
「じゃあ、いつ替えるんですか」
◇
この問いに、答えがなかった。
レンツは板を見ていた。
楔の中の割れ。数は視える。だが、その数がいくつを超えたら替えるべきなのか。
誰も決めていない。
この世界には、規格がない。
合格も、不合格もない。
あるのは「壊れた」と「まだ壊れていない」だけだ。
「イルゼさん」
「はい」
「一つ、決めなければならないことがあります」
「何ですか」
「どこまでが使えて、どこからが使えないか」
レンツは言った。
「それを、決める人がいません」
◇
翌日、彼はホルスト工房へ行った。
グンター・ホルストは、条件を揃えて十本打ち終えたところだった。
「幅は六だ」
彼は自分で言った。
「そっちで測ってくれ。俺の耳だと、六くらいに聞こえる」
レンツは十本を視た。
九から十五。幅は六。
「六です」
「当たったか」
「当たりました」
ホルストが笑った。
それから、床の板を見た。
「で、うちの地のゆらぎは六だ。それでどうする」
「ここからが、問題です」
レンツは言った。
「六の幅の中で作れることは、分かりました。ですが、その六が、使う側にとって足りているかどうかが分かりません」
「使う側」
「剣を持つ人です。荷を吊る人です」
彼は言った。
「硬さが九でも十五でも、使う人には同じに見えます。どちらも、折れるまでは同じです」
「折れなきゃいいんだろ」
「どこまでなら折れないかを、誰も知りません」
◇
ホルストが、腕を組んだ。
「そりゃ、折れてみりゃ分かる」
「はい」
「昔からそうだ。使って、折れて、ああ駄目だったと」
「その方法だと」
レンツは言った。
「折れたときに、下に人がいます」
ホルストが黙った。
「先に決めておかないと、間に合いません」
「どうやって決める」
「分かりません」
レンツは言った。
「ですが、決めなければ、何も始まりません」
◇
工房に戻る道で、レンツは考えていた。
決めるとは、線を引くことだ。
ここまでは合格。ここからは不合格。
線を引けば、線の下に落ちたものは捨てることになる。今まで売れていたものが、売れなくなる。
そして、もし線を低く引きすぎれば。
――折れる。
人が死ぬ。
線を引いた人間の責任になる。
レンツは足を止めた。
胸の奥に、覚えのある重さがあった。
前にも、これを感じたことがある。
紙を持って、机の前に立っていた。線を引いた紙だった。ここから先は駄目だと書いた紙だった。
それを、誰かが引き出しにしまった。
――そして。
その先が、思い出せない。
彼は歩きはじめた。
◇
その夜、工房でイルゼが言った。
「決めるって、誰が決めるんですか」
「俺です」
レンツは言った。
「他に、数を視られる人がいません」
「じゃあ、決めてください」
「決めます」
彼は言った。
だが、炭は持たなかった。
「決めたら、どうなるんですか」
「線より下のものが、使えなくなります」
「捨てるってことですか」
「はい」
「今まで売ってたものも、ですか」
「そうなります」
イルゼは、しばらく考えていた。
「線を、低くしたらどうなりますか」
「捨てるものが減ります」
「じゃあ、低くすれば」
「折れます」
レンツは言った。
「どこかで、折れます」
◇
イルゼは炉のふちに腰かけた。
「レンツさん」
「はい」
「怖いんですか」
彼は顔を上げた。
「線を引くの、怖いんですか」
「……はい」
答えてから、彼は少し驚いた。
二十年、怖いと言ったことがなかった。
「間違えたら、どうなるんですか」
「人が死にます」
「じゃあ、決めなかったら」
イルゼが言った。
「決めなかったら、どうなるんですか」
レンツは、答えを持っていた。
「今のままです」
「今のままって」
「四十年、誰も見ない鉤が吊られ続けます」
彼は言った。
「そして、たまに落ちます」
イルゼが頷いた。
「じゃあ、決めたほうがましですね」
◇
彼女は立ち上がって、工房の隅から鉤を持ってきた。
クヴァント工房から買い取った四本のうちの一本。空、十一のものだ。
「これ、良いほうですよね」
「はい。一番良いです」
「これは、何年もちますか」
「分かりません」
「じゃあ、これを基準にしましょう」
イルゼは、床に鉤を置いた。
「これより悪いものは、使わない」
「それだと」
レンツは言った。
「六十本のうち、五十九本が使えなくなります」
「あ」
彼女は口を押さえた。
「じゃあ、駄目ですね」
「駄目です」
「……難しいですね」
「はい」
レンツは言った。
「良いものを基準にすると、何も作れなくなります」
◇
彼は、床に札を並べ直した。
六十本。山と、離れ。
九から十六に、五十六本。
この山が、今のこの街が作れる範囲だ。
どれだけ気をつけても、この中でばらつく。
だから、線をこの山の中に引いてはいけない。引けば、地のゆらぎで落ちるものが出る。
誰の落ち度でもないのに、落ちる。
「線は、山の外に引きます」
レンツは言った。
「外」
「山の右端が十六です。ここに線を引けば、地のゆらぎで落ちるものは出ません」
彼は札を指した。
「そして、離れた四本は、全部落ちます」
イルゼが札を見た。
「二十九、三十一、三十九、四十四……全部、線の外ですね」
「はい」
レンツは言った。
「人のゆらぎだけが落ちる線です」
◇
だが、彼は炭を握ったまま、まだ書かなかった。
「どうしたんですか」
「これは、作る側の線です」
レンツは言った。
「使う側の線ではありません」
「違うんですか」
「違います」
彼は言った。
「十六で折れないかどうかは、まだ分かっていません。十六の鉤が梁にかかって、二年もつのか、二十年もつのか、誰も知りません」
イルゼが、少し黙った。
「じゃあ、どうやって決めるんですか」
「調べます」
「どうやって」
「壊れたものを、集めます」
レンツは言った。
「壊れた鉤を集めて、全部視ます。壊れたときの数が分かれば、どこから危ないかが分かります」
「壊れたもの、集まりますか」
「集まります」
彼は言った。
「この街では、毎日どこかで何かが壊れています」
◇
その夜、レンツは板に一行だけ書いた。
――壊れたものを、捨てないでください。
二枚作った。
一枚をイルゼに渡し、もう一枚を袋に入れた。
明日、職人街を回る。
壊れたものを、集めるために。
そして彼は、まだ線を引いていない。
引くには、まだ数が足りない。
今回もお読みいただきありがとうございます✨️
第一部の最後の仕事が始まりました。
「どこまでが良くて、どこからが駄目なのか」
これを決める作業です。
ここで一つ、大事なこと。
レンツのスキルは、良し悪しを教えてくれないのです。
ただ、数が視えるだけです。
「硬さ十六」が良いのか悪いのか。
それは、どれだけ測っても出てきません。
――基準は、測定からは出てきません。
――誰かが、決めるしかありません。
そして決めるとは、責任を負うことです。
線を高く引けば、たくさん捨てることになります。
線を低く引けば、悪い製品が世の中に流通します。
レンツは、それを怖いと言いました。
二十年で、初めてのことでした。
当然です。
自分だけで規格値を作るのですから。
さて、彼は一つ目の答えを出しました。
線は、山の外に引く。
地のゆらぎ(不変要因)で落ちるものが出ないように。
人のゆらぎ(可変要因)だけが落ちるように。
これは、作る側にとって正しい線です。
しかし、まだ足りません。
その線を超えたものが、
本当に折れないかどうかを、誰も知らないからです。
だから彼は、壊れたものを集めはじめます。
――壊れたものは、なぜ壊れたかを知っている。
あなたの職場では、壊れたものや不良品から、しっかりデータを得られていますか?
何もせず、ただ捨てていませんか?




