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第15話 地のゆらぎ、人のゆらぎ

 人を集めたのは、イルゼ・シュミットだった。


「見せたほうが早いです」


 彼女はそう言って、二軒を回ってきた。


 クヴァント工房の床には、まだ札が並んでいる。その上に、レンツ・ノルムが新しく並べ直した。


 六十本。


 山と、四つの離れ。


 そのあいだの空白。


 ベルント・クヴァントは、腕を組んで立っていた。グンター・ホルストは屈み込んで、濁った片目を近づけている。


「これが、俺の三十年か」


 クヴァントが言った。


「はい」


「ひでえな」


「悪くありません」


 レンツは言った。


「山の幅は、七です。ホルスト工房のものは、九ありました」


「おい」


 ホルストが顔を上げた。


「本当か」


「はい」


「俺のほうがひでえのか」


「大物が多いからです」


 レンツは言った。


「大きいものほど、揃いません。これは、腕の差ではありません」


   ◇


「で」


 クヴァントが言った。


「何が言いたい」


 レンツは、床の山を指した。


「これは、消せません」


「消せない」


「三日前、条件を全部揃えて二十本打っていただきました。幅は五まで減りましたが、消えませんでした。二度やって、二度とも残りました」


 彼は、離れた四枚を指した。


「こちらは、違います」


「違うのか」


「三本には、理由がありました。炉に入れすぎた。人が違った。鉄が違った」


 レンツは言った。


「全部、揃えれば起きません」


 工房が静かになった。


 ホルストが、床の空白を指でなぞった。


「ここが、空いてんな」


「はい」


「なんで空いてる」


「分かりません」


 レンツは言った。


「ですが、空いているということは、山と離れが、続いていないということです」


   ◇


「一つ、伺わせてください」


 レンツは言った。


「揃わない日を、どう呼んでいますか」


「ゆらぎだ」


 クヴァントが即答した。


「炉に入れすぎた日は」


「……それも、ゆらぎと言うな」


「同じ言葉ですか」


「同じだ」


 クヴァントは言った。


「駄目な日は駄目だ。理由なんか、いちいち分けねえ」


 レンツは、床を指した。


「分けないと、この六十本は、全部同じに見えます」


「見えるさ」


「そして、全部が消せないものに見えます」


 クヴァントの手が止まった。


「消せるものが、四本あります」


 レンツは言った。


「六十本のうち四本。七本に一本近くが、消せます」


   ◇


 ホルストが、床に座り込んだ。


「じゃあ何だ。呼び分けろってのか」


「はい」


「なんて呼ぶ」


「決めていません」


 レンツは言った。


「決められませんでした」


「なんでだ」


「呼び方を間違えると、誰かを責める言葉になります」


 彼は札を見た。


「離れているほうを『人のせい』と呼ぶと、鉄が変わったときのクヴァントさんが、責められる側になります」


 クヴァントが顔を上げた。


「あのとき、誰も鉄が変わったと教えませんでした。教える仕組みがありませんでした」


 レンツは言った。


「それは、クヴァントさんの落ち度ではありません」


「……だが、俺が打った」


「打ちました」


「じゃあ俺のせいだろ」


「違います」


 レンツは言った。


「誰のせいでもありません。ですが、次は防げます。──そう、これは防げることなんです」


   ◇


 しばらく、誰も口をきかなかった。


 やがて、ホルストが言った。


「山のほうは、どうにもならんのか」


「今のところは」


「今のところ」


「はい」


 レンツは言った。


「調べても、まだ見つかっていません。この先も見つからないかもしれません」


「ならそれは、ゆらぎだな」


 ホルストが言った。


「そうだろう。それこそが、ゆらぎだ」


 レンツは、その言葉を聞いていた。


 ――そうだ。


 あれこそが、この街の言うゆらぎだ。


 だが、離れた四本は違う。あれは、ゆらぎではなかった。ゆらぎの名前を借りて、四十年隠れていただけだ。


「ホルストさん」


「なんだ」


「山のほうを、ゆらぎと呼びましょう」


「そう言ってる」


「その代わり」


 レンツは言った。


「離れたほうは、ゆらぎと呼ばないでください」


   ◇


「じゃあ、なんて呼ぶ」


 イルゼが言った。


「あれ、誰のせいでもないんですよね」


「はい」


「でも、人がやったことですよね」


「はい」


「……人がやったことだけど、悪くないもの」


 彼女は言葉を探した。


「そんなの、なんて言えばいいんですか」


 レンツは答えなかった。


 彼も、五日探していた。


 そのとき、クヴァントが言った。


「手の跡だな」


 三人が、彼を見た。


「炉に入れすぎたのも、弟子が打ったのも、鉄が変わったのもだ」


 クヴァントは床を指した。


「全部、誰かの手が触った跡だ。悪いことじゃねえ。ただ、触ったから残ってる」


「手の跡」


「そうだ」


 彼は言った。


「山のほうは、誰も触ってねえ。俺が何もしなくても、そこにある」


 レンツは、床を見た。


 ――誰も触っていないもの。


 ――誰かが触ったもの。


 彼は、炭を取った。


   ◇


 板に、二行書いた。


 書いてから、読み上げた。


「山のほうを、()()()()()と呼びます」


「地の」


「この土地のもの、という意味です。鉄にも、水にも、火にも、初めから入っています。誰のものでもありません」


 レンツは言った。


「消せません。だから、これに腹を立てても仕方がありません」


 ホルストが頷いた。


「そりゃそうだ」


「離れたほうを」


 レンツは、二行目を指した。


()()()()()と呼びます」


 クヴァントが眉を寄せた。


「人のせい、ってことか」


「違います」


 レンツは言った。


「人の手が届く、という意味です」


 工房が、静かになった。


「炉に入れすぎたのは、直せます。人が違うなら、決めれば揃います。鉄が変わったなら、書いておけば次は気づけます」


 彼は言った。


「人の手が届いたから起きた。だから、人の手で減らせます」


「……減らせるほう、か」


「はい」


 レンツは言った。


「責める言葉ではありません。届く、という言葉です」


   ◇


 クヴァントは、床を見下ろしていた。


 長いこと、何も言わなかった。


「三十年」


 やがて、彼は言った。


「三十年、俺は全部ゆらぎだと思ってた」


「はい」


「揃わねえ日は、諦めてた。そういうもんだと思ってた」


 彼は、離れた四枚を指した。


「これが、届くのか」


「届きます」


「四本分か」


「四本分です」


 クヴァントが、鼻を鳴らした。


「たった四本だな」


「六十本のうち四本です」


 レンツは言った。


「そして、この四本のうち一本は、鉤が空でした。あれが梁にかかっていたら、下を通った誰かが死にます」


 彼は言った。


「四本分、人が死ななくなります」


   ◇


 ホルストが立ち上がった。


 膝が鳴った。


「レンツ」


「はい」


「うちの三十本、あれも分けられるか」


「分けられます」


「どうやる」


「同じことをします」


 レンツは言った。


「条件を揃えて、何本か打っていただきます。そこで残る幅が、ホルスト工房の地のゆらぎです」


 彼は言った。


「それより外に出たものが、人のゆらぎです。理由があります。探せば、見つかります」


「見つからんときは」


「見つからないと書いて、置いておきます」


 レンツは言った。


「四十四が、まだ見つかっていません」


 ホルストが、少し笑った。


「正直だな」


「はい」


「そういうやつは、信じられる」


   ◇


 その夜、レンツは工房の床に座っていた。


 板が一枚。


 地のゆらぎ。


 人のゆらぎ。


 二行だけ書いてある。


 二十年、彼はこの二つを分けられなかった。分けるための言葉がなかったからだ。


 言葉がないものは、口に出せない。


 口に出せないものは、他人に渡せない。


 ――だから、二十年、誰にも渡らなかった。


 彼は板を見ていた。


 今日、三人に渡った。


 三人が、この言葉を使って話しはじめた。ホルストは自分の工房の幅を知りたがり、クヴァントは弟子を呼んで打ち方を聞いていた。


 言葉が一つあるだけで、話が進む。


 レンツは、板を二枚作った。


 一枚を、イルゼに渡した。


「これ、どうするんですか」


「取っておいてください」


「また二枚ですか」


「はい」


 イルゼは板を受け取って、それから、少し笑った。


「片方が失われたときのため、ですよね」


「はい」


「もう覚えました」


 彼女は板を胸の前で抱えた。


 それから、こう言った。


「レンツさん」


「はい」


「父は、ゆらぎだって言われて死にました」


 レンツは、顔を上げた。


「あれ、どっちですか」


   ◇


 レンツは、答えなかった。


 答えを持っていたからだ。


 吊り具の中は空だった。四十年、誰も見ていなかった。見る決まりがなかった。


 あれは、人の手が届くものだ。


 届いたはずだった。


 誰も、手を伸ばさなかっただけで。


 彼は板を握った。


「イルゼさん」


「はい」


「もう一度、工房の道具を全部測らせてください」


 彼女は、少しのあいだ黙っていた。


「……全部ですか」


「全部です」


「梁も、炉も、槌も、桶もですか」


「全部です」


 イルゼは頷いた。


「明日からで、いいですか」


「はい」


 彼女は板を持ったまま、階段のほうへ歩いていった。


 途中で、一度だけ振り返った。


「ありがとうございます」


 それだけ言って、上がっていった。


 レンツは、床に残った札を片付けはじめた。


 山と、離れ。


 消せないものと、届くもの。


 この二つを分けるのに、彼は二十年かかった。

今回もお読みいただきありがとうございます✨️


言葉を決めるための会議。

これは本作で大変大きな意味をもつ回でした。


この世界の人々は、すべての変動を

「ゆらぎ」という一つの言葉で呼んできました。


前回にもあった、万物にはマナが宿るという司祭の言葉。

これは現実世界と確実に異なる要因です。

この世界では、本当に揺らいでいます。


だからこそ、厄介でした。


消せないものと、消せるもの。

その二つが、同じ言葉の中に混ざっていたからです。


混ざっている限り、区別できません。


消せるものを消せないと思えば、諦めます。

消せないものを消せると思えば、疲れ果てます。


――そして、どちらも起きていました。


イルゼは八ヶ月、自分の腕を責めました。

クヴァント親方は三十年、諦めていました。


今回、レンツは二つの言葉を作りました。


地のゆらぎ。

この土地のもの。誰のせいでもなく、消せないもの。


人のゆらぎ。

人の手が届いたから起きた、人の手で減らせるもの。


そして彼は、「人のせい」とは呼びませんでした。


呼び方を間違えると、名前は裁きになります。

職人たちは怠けていません。

変わったことを、誰も教えなかっただけです。


――責める言葉ではなく、届く言葉を。


さて、六十本のうち、届くのは四本でした。

たった四本です。


十五本に一本。

それが「人の手が届く」ものの割合でした。


そして六十本に一本は、中が空の鉤でした。

梁にかけていたら、下を通った誰かが死んでいたかもしれません。


――知ってしまうと、なんとも怖ろしい話です。


しかし、知らなければ、四十年そのままでした。


次回、レンツは第一部の最後の仕事に取りかかります。


どこまでが良くて、どこからが駄目なのか。

それを、この世界で初めて決める仕事です。

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