表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
14/26

第14話 ゆらぎ、という言葉

 エーベル工房の台車の輪は、単純な話だった。


 鉄輪の継ぎ目が開いていた。開いた理由は、荷を積みすぎたからだ。


「積みすぎです」


 レンツ・ノルムは言った。


「どのくらいまでなら、いいんですか」


 弟子の若い男が聞いた。まだ十七か八だろう。


「分かりません」


「え」


「この台車が、どれだけ載せられるかを決めた人がいません」


 レンツは言った。


「作った人は、たぶん考えていました。ですが、書いていません」


 男は困った顔をした。


「じゃあ、どうすれば」


「今日から数えてください」


 レンツは板を一枚渡した。


「一度に載せた鉄の数を、線で書く。輪が開いたら、その日の線を丸で囲む」


「それだけですか」


「一年やれば、危ない数が分かります」


 男は板を受け取って、しばらく見ていた。


「一年」


「はい」


「……長いですね」


「長いです」


 レンツは言った。


「ですが、一年前に始めていれば、今日分かっていました」


   ◇


 帰り道、イルゼ・シュミットが言った。


「あの子、やりますかね」


「分かりません」


「やらないと思います」


 彼女は言った。


「一年後の自分のために、今日面倒なことをする人って、あんまりいません」


 レンツは頷いた。


 その通りだった。


 二十年、彼が書き続けられたのは、他にやることがなかったからだ。誰も彼の言葉を聞かなかったから、書く以外に道がなかった。


 普通の人間には、他にやることがある。


   ◇


 工房に戻ると、板の束が待っていた。


 三十九。二十九。三十一。四十四。そして、山。


 レンツは、それを床に並べ直した。


 四本の離れのうち、三本には理由がある。


 一本には、ない。


 山には、ない。


 彼は、この二種類の「ない」を分けたかった。


 分けるには、名前が要る。


 名前がないものは、口に出せない。口に出せないものは、他人と共有できない。


「イルゼさん」


「はい」


「この山を、なんと呼びますか」


「え」


「あなたなら、なんと言いますか」


 イルゼは、床の札を見た。


「……ばらつき、ですか」


「離れているほうは」


「それも、ばらつきです」


 彼女は言った。


 それから、自分の言葉に気づいた。


「あ」


「はい」


「同じ言葉ですね」


   ◇


 この街の人間は、どちらも「ゆらぎ」と呼ぶ。


 鉄がゆらいだ。運がゆらいだ。今日はゆらぎが悪い。


 レンツは、その言葉を使ったことがなかった。使うと、そこで話が終わるからだ。


 だが、彼にも代わりの言葉がなかった。


 ――言葉がないから、俺も二十年、分けられなかった。


 彼は札を見た。


 山と、離れ。


 消せるものと、消せないもの。


 この二つを一つの言葉で呼んでいる限り、誰も区別できない。


 区別できないものは、対策できない。


 消せるものを消せないと思えば、諦める。


 消せないものを消せると思えば、疲れ果てる。


 ――どちらも、起きている。


 クヴァントは三十年、揃わない日を「そういう日」と呼んで休んできた。あれは、消せないものへの正しい対処だ。


 イルゼは八ヶ月、自分の腕を責め続けた。あれは、消せるものを消せないと思った結果だ。


 同じ言葉が、両方を覆っていた。


   ◇


 翌日、レンツは教会へ行った。


 字を教わった場所だ。月に何度か、まだ通っている。読み書きのできる人間が、この街には少ない。板を書き写す手が要るときは、司祭に頼むことがあった。


「レンツか」


 ヴァルター司祭は、六十を過ぎている。痩せていて、背が高い。


 字を教えてくれた人だった。


「頼みがあります」


「板か」


「はい。三十枚ほど写していただきたいのですが」


 司祭は板の束を受け取り、一枚めくった。


「数字ばかりだな」


「はい」


「相変わらずだ」


 彼は笑った。


 悪意はなかった。この人には、一度もなかった。


   ◇


 写しているあいだ、レンツは待っていた。


 教会の中は静かだった。長椅子が並び、奥に秤の像が置かれている。


 オルディン。秩序の神。


 左右の皿が、水平に釣り合っている。


「司祭様」


「なんだ」


「一つ、伺ってもよろしいですか」


「なんでも聞け」


 レンツは、板を一枚出した。


 クヴァント工房の、二十本分の数字だ。


「同じ鉄を、同じ炉で、同じ人が、同じ日に打ちました」


「うむ」


「二十本、全部違いました」


 司祭は板を見た。


「そうだろうな」


「なぜでしょうか」


「ゆらぎだ」


 司祭は、迷わず言った。


「万物にはマナが宿る。マナは常に揺れている。だから、同じものは二つとない」


「はい」


「これは、神がお定めになったことだ」


 彼は秤の像を指した。


「オルディン様は世界に秩序をお与えになった。だが、その秩序の中に、ゆらぎを置かれた。人が驕らぬようにな」


 レンツは、それを聞いていた。


 筋は通っている。


 この人は、嘘を言っていない。彼が知っている限りの、最も誠実な説明をしている。


「では」


 レンツは言った。


「この二十本のうち、一本だけ、大きく外れたものがありました」


「ふむ」


「それは、炉に長く入れすぎたからでした」


「ほう」


「それも、ゆらぎでしょうか」


 司祭が、少し黙った。


「……それは、人の過ちだ」


「はい」


「炉に入れすぎたのだから、その者の落ち度だな」


「では、残りの十九本は」


「ゆらぎだ」


「どこからが過ちで、どこからがゆらぎですか」


 司祭が、顔を上げた。


 レンツを見た。


 それから、こう言った。


「レンツ。それは、人が知ることではない」


   ◇


 悪意はなかった。


 脅しでもなかった。


 この人は、本気でそう思っている。


「人が知ろうとすれば、際限がなくなる」


 司祭は言った。


「どこまでも原因を探し、どこまでも自分を責めることになる。それは苦しみだ」


 彼は板を返した。


「ゆらぎと呼ぶのは、そこで止まるためだ。()()()()()()()()()()()


 レンツは、板を受け取った。


 この言葉を、彼は否定できなかった。


 イルゼは八ヶ月、自分を責めた。原因が分からないまま、自分の腕のせいだと思い続けた。あれは苦しみだった。


 もし「ゆらぎだ」と言われて納得できていたら、彼女は苦しまなかったかもしれない。


 ――だが、鉤は切れる。


「司祭様」


「なんだ」


「ゆらぎと呼んで止まると、原因のあるものも、そこで止まります」


「うむ」


「止まった先で、人が死にます」


 司祭は、しばらくレンツを見ていた。


 それから、静かに言った。


「それも、神のお定めだ」


   ◇


 教会を出たとき、日が傾いていた。


 レンツは板の束を抱えて、川沿いを歩いた。


 司祭は正しい。


 全部の原因を追えば、人は壊れる。どこかで止まらなければならない。


 だが、止まる場所が問題だった。


 この街は、()()()()()()()()()()


 何も調べる前に、ゆらぎと呼んで終わる。だから井戸が変わったことに八ヶ月気づかず、鉤の中が空でも四十年使い続ける。


 止まるのが早すぎる。


 ――止まるなら、調べてからだ。


 レンツは足を止めた。


 調べて、それでも残ったものを、ゆらぎと呼べばいい。


 そのためには。


 ――調べれば消えるものと、調べても消えないものを、先に分けなければならない。


 彼は、板を抱え直した。


 言葉が要る。


 二つを呼び分ける言葉が。


   ◇


 その夜、レンツは工房の床で炭を握っていた。


 板の上に、二つの言葉を書こうとした。


 書けなかった。


 「ゆらぎ」という語は使える。この街の誰もが知っている。だが、そのままでは分けられない。


 分けるなら、二つに割るしかない。


 彼は、床の札を見た。


 山と、離れ。


 山は、どこにでもある。工房を替えても、職人を替えても、条件を揃えても残る。この土地の、鉄そのものが持っている。


 離れは、そうではない。誰かが何かをした跡だ。炉に入れすぎた。人が違った。鉄が違った。


 片方は、世界のもの。


 片方は、人のもの。


 レンツは、炭を板に当てた。


 そして、手を止めた。


 ――待て。


 人のもの、と言い切っていいのか。


 鉄が変わったのは、鉱山が新しい坑を掘ったからだ。あれは人がやったことだが、クヴァントの過ちではない。


 人が違ったのは、弟子が打ったからだ。あれも、誰も悪くない。


 責める言葉にしてはいけない。


 彼は炭を置いた。


 名前をつけるということは、その名前で人を裁くということでもある。


 ――間違えれば、この街の職人が全員、責められる側に回る。


 レンツは、板を見ていた。


 まだ、書けなかった。

今回もお読みいただきありがとうございます!


今回、司祭がこう言いましたね。

「ゆらぎと呼ぶのは、そこで止まるためだ。

 止まらねば、人は壊れる」

これは、正しいことです。


原因を無限に追えば、現場は疲弊します。

どこかで打ち切らなければ、仕事は回りません。


そしてレンツが言った通り、問題は「止まる場所」です。


この街は、調べる前に止まっています。

だから井戸の変化に八ヶ月気づかず、

中が空の鉤を四十年使い続けます。


――止まるなら、調べてからです。


そしてもう一つ。


レンツは名前をつけようとして、手を止めました。

名前をつけるということは、

その名前で誰かを裁くということでもあります。


「人のせいのばらつき」と呼んだ瞬間、

職人たちは責められる側に回ります。


彼らは怠けていません。

変わったことを、誰も教えなかっただけです。


――どう呼ぶかで、誰が責められるかが決まります。


あなたの職場で使われている言葉は、

誰かを裁く言葉になっていませんか。

パワハラ、モラハラの時代なので、言葉ひとつとっても難しいですよね。


次回、レンツはついに、その言葉を見つけます。

是非、お楽しみに♪

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ