第14話 ゆらぎ、という言葉
エーベル工房の台車の輪は、単純な話だった。
鉄輪の継ぎ目が開いていた。開いた理由は、荷を積みすぎたからだ。
「積みすぎです」
レンツ・ノルムは言った。
「どのくらいまでなら、いいんですか」
弟子の若い男が聞いた。まだ十七か八だろう。
「分かりません」
「え」
「この台車が、どれだけ載せられるかを決めた人がいません」
レンツは言った。
「作った人は、たぶん考えていました。ですが、書いていません」
男は困った顔をした。
「じゃあ、どうすれば」
「今日から数えてください」
レンツは板を一枚渡した。
「一度に載せた鉄の数を、線で書く。輪が開いたら、その日の線を丸で囲む」
「それだけですか」
「一年やれば、危ない数が分かります」
男は板を受け取って、しばらく見ていた。
「一年」
「はい」
「……長いですね」
「長いです」
レンツは言った。
「ですが、一年前に始めていれば、今日分かっていました」
◇
帰り道、イルゼ・シュミットが言った。
「あの子、やりますかね」
「分かりません」
「やらないと思います」
彼女は言った。
「一年後の自分のために、今日面倒なことをする人って、あんまりいません」
レンツは頷いた。
その通りだった。
二十年、彼が書き続けられたのは、他にやることがなかったからだ。誰も彼の言葉を聞かなかったから、書く以外に道がなかった。
普通の人間には、他にやることがある。
◇
工房に戻ると、板の束が待っていた。
三十九。二十九。三十一。四十四。そして、山。
レンツは、それを床に並べ直した。
四本の離れのうち、三本には理由がある。
一本には、ない。
山には、ない。
彼は、この二種類の「ない」を分けたかった。
分けるには、名前が要る。
名前がないものは、口に出せない。口に出せないものは、他人と共有できない。
「イルゼさん」
「はい」
「この山を、なんと呼びますか」
「え」
「あなたなら、なんと言いますか」
イルゼは、床の札を見た。
「……ばらつき、ですか」
「離れているほうは」
「それも、ばらつきです」
彼女は言った。
それから、自分の言葉に気づいた。
「あ」
「はい」
「同じ言葉ですね」
◇
この街の人間は、どちらも「ゆらぎ」と呼ぶ。
鉄がゆらいだ。運がゆらいだ。今日はゆらぎが悪い。
レンツは、その言葉を使ったことがなかった。使うと、そこで話が終わるからだ。
だが、彼にも代わりの言葉がなかった。
――言葉がないから、俺も二十年、分けられなかった。
彼は札を見た。
山と、離れ。
消せるものと、消せないもの。
この二つを一つの言葉で呼んでいる限り、誰も区別できない。
区別できないものは、対策できない。
消せるものを消せないと思えば、諦める。
消せないものを消せると思えば、疲れ果てる。
――どちらも、起きている。
クヴァントは三十年、揃わない日を「そういう日」と呼んで休んできた。あれは、消せないものへの正しい対処だ。
イルゼは八ヶ月、自分の腕を責め続けた。あれは、消せるものを消せないと思った結果だ。
同じ言葉が、両方を覆っていた。
◇
翌日、レンツは教会へ行った。
字を教わった場所だ。月に何度か、まだ通っている。読み書きのできる人間が、この街には少ない。板を書き写す手が要るときは、司祭に頼むことがあった。
「レンツか」
ヴァルター司祭は、六十を過ぎている。痩せていて、背が高い。
字を教えてくれた人だった。
「頼みがあります」
「板か」
「はい。三十枚ほど写していただきたいのですが」
司祭は板の束を受け取り、一枚めくった。
「数字ばかりだな」
「はい」
「相変わらずだ」
彼は笑った。
悪意はなかった。この人には、一度もなかった。
◇
写しているあいだ、レンツは待っていた。
教会の中は静かだった。長椅子が並び、奥に秤の像が置かれている。
オルディン。秩序の神。
左右の皿が、水平に釣り合っている。
「司祭様」
「なんだ」
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「なんでも聞け」
レンツは、板を一枚出した。
クヴァント工房の、二十本分の数字だ。
「同じ鉄を、同じ炉で、同じ人が、同じ日に打ちました」
「うむ」
「二十本、全部違いました」
司祭は板を見た。
「そうだろうな」
「なぜでしょうか」
「ゆらぎだ」
司祭は、迷わず言った。
「万物にはマナが宿る。マナは常に揺れている。だから、同じものは二つとない」
「はい」
「これは、神がお定めになったことだ」
彼は秤の像を指した。
「オルディン様は世界に秩序をお与えになった。だが、その秩序の中に、ゆらぎを置かれた。人が驕らぬようにな」
レンツは、それを聞いていた。
筋は通っている。
この人は、嘘を言っていない。彼が知っている限りの、最も誠実な説明をしている。
「では」
レンツは言った。
「この二十本のうち、一本だけ、大きく外れたものがありました」
「ふむ」
「それは、炉に長く入れすぎたからでした」
「ほう」
「それも、ゆらぎでしょうか」
司祭が、少し黙った。
「……それは、人の過ちだ」
「はい」
「炉に入れすぎたのだから、その者の落ち度だな」
「では、残りの十九本は」
「ゆらぎだ」
「どこからが過ちで、どこからがゆらぎですか」
司祭が、顔を上げた。
レンツを見た。
それから、こう言った。
「レンツ。それは、人が知ることではない」
◇
悪意はなかった。
脅しでもなかった。
この人は、本気でそう思っている。
「人が知ろうとすれば、際限がなくなる」
司祭は言った。
「どこまでも原因を探し、どこまでも自分を責めることになる。それは苦しみだ」
彼は板を返した。
「ゆらぎと呼ぶのは、そこで止まるためだ。止まらねば、人は壊れる」
レンツは、板を受け取った。
この言葉を、彼は否定できなかった。
イルゼは八ヶ月、自分を責めた。原因が分からないまま、自分の腕のせいだと思い続けた。あれは苦しみだった。
もし「ゆらぎだ」と言われて納得できていたら、彼女は苦しまなかったかもしれない。
――だが、鉤は切れる。
「司祭様」
「なんだ」
「ゆらぎと呼んで止まると、原因のあるものも、そこで止まります」
「うむ」
「止まった先で、人が死にます」
司祭は、しばらくレンツを見ていた。
それから、静かに言った。
「それも、神のお定めだ」
◇
教会を出たとき、日が傾いていた。
レンツは板の束を抱えて、川沿いを歩いた。
司祭は正しい。
全部の原因を追えば、人は壊れる。どこかで止まらなければならない。
だが、止まる場所が問題だった。
この街は、最初から止まっている。
何も調べる前に、ゆらぎと呼んで終わる。だから井戸が変わったことに八ヶ月気づかず、鉤の中が空でも四十年使い続ける。
止まるのが早すぎる。
――止まるなら、調べてからだ。
レンツは足を止めた。
調べて、それでも残ったものを、ゆらぎと呼べばいい。
そのためには。
――調べれば消えるものと、調べても消えないものを、先に分けなければならない。
彼は、板を抱え直した。
言葉が要る。
二つを呼び分ける言葉が。
◇
その夜、レンツは工房の床で炭を握っていた。
板の上に、二つの言葉を書こうとした。
書けなかった。
「ゆらぎ」という語は使える。この街の誰もが知っている。だが、そのままでは分けられない。
分けるなら、二つに割るしかない。
彼は、床の札を見た。
山と、離れ。
山は、どこにでもある。工房を替えても、職人を替えても、条件を揃えても残る。この土地の、鉄そのものが持っている。
離れは、そうではない。誰かが何かをした跡だ。炉に入れすぎた。人が違った。鉄が違った。
片方は、世界のもの。
片方は、人のもの。
レンツは、炭を板に当てた。
そして、手を止めた。
――待て。
人のもの、と言い切っていいのか。
鉄が変わったのは、鉱山が新しい坑を掘ったからだ。あれは人がやったことだが、クヴァントの過ちではない。
人が違ったのは、弟子が打ったからだ。あれも、誰も悪くない。
責める言葉にしてはいけない。
彼は炭を置いた。
名前をつけるということは、その名前で人を裁くということでもある。
――間違えれば、この街の職人が全員、責められる側に回る。
レンツは、板を見ていた。
まだ、書けなかった。
今回もお読みいただきありがとうございます!
今回、司祭がこう言いましたね。
「ゆらぎと呼ぶのは、そこで止まるためだ。
止まらねば、人は壊れる」
これは、正しいことです。
原因を無限に追えば、現場は疲弊します。
どこかで打ち切らなければ、仕事は回りません。
そしてレンツが言った通り、問題は「止まる場所」です。
この街は、調べる前に止まっています。
だから井戸の変化に八ヶ月気づかず、
中が空の鉤を四十年使い続けます。
――止まるなら、調べてからです。
そしてもう一つ。
レンツは名前をつけようとして、手を止めました。
名前をつけるということは、
その名前で誰かを裁くということでもあります。
「人のせいのばらつき」と呼んだ瞬間、
職人たちは責められる側に回ります。
彼らは怠けていません。
変わったことを、誰も教えなかっただけです。
――どう呼ぶかで、誰が責められるかが決まります。
あなたの職場で使われている言葉は、
誰かを裁く言葉になっていませんか。
パワハラ、モラハラの時代なので、言葉ひとつとっても難しいですよね。
次回、レンツはついに、その言葉を見つけます。
是非、お楽しみに♪




