第13話 三本のうち、二本
二十九の鉤は、一日で片がついた。
クヴァント工房の帳面――といっても、注文を受けた品名を線で数えただけのものだが――を見ると、その日は六本ではなく七本打っていた。
金物屋に納めたのが六本。もう一本は、別の客に直接渡している。
「そいつは、弟子に打たせた」
ベルント・クヴァントは言った。
「え」
「うちの一番上のやつだ。もう十年やってる。あれくらいは打てる」
「どれですか」
クヴァントが呼ぶと、三十がらみの男が来た。
背が高く、腕が長い。
レンツ・ノルムは、彼の手を見た。それから、クヴァントの手を見た。
同じではなかった。
「あなたが打ったものは、どれですか」
「……分かりません。もう半年前です」
男は困った顔をした。
「並べても分かりませんか」
「見た目じゃ、無理です」
レンツは四本を並べた。十一、十二、十四、二十九。
男はしばらく見て、それから二十九を取った。
「これ、かもしれません」
「なぜ」
「柄の付け根の削りが、俺のやり方です」
彼は指で示した。
「親方は、ここをもう一削りします。俺は面倒でやりません」
クヴァントが背後で舌打ちした。
◇
「打つ回数は、何回ですか」
「数えてません」
「では、親方より多いですか、少ないですか」
男は少し考えた。
「……多いと思います。俺、力がないので」
「多く打つと」
「その分、冷めます。だから途中でもう一度炉に戻します」
「親方は戻しますか」
「戻さないですね。一発で決めるので」
レンツは書き留めた。
同じ工房、同じ鉄、同じ炉、同じ水。
違ったのは、**人**だった。
◇
「これは、消せるものですか」
工房を出てから、イルゼ・シュミットが言った。
「消せます」
レンツは言った。
「打つ回数と、炉に戻す回数を決めればいい。決めて、その通りにやれば揃います」
「じゃあ、決めればいいんですね」
「決めれば、そうなります」
彼は言いながら、少し引っかかっていた。
――決めれば、そうなる。
だが、誰が決めるのか。
クヴァントのやり方が正しいのか。弟子のやり方が正しいのか。
どちらも鉤は打てている。どちらも、四十年もつものを作れる。
正しさを決める根拠が、まだない。
彼はそれを板に書いた。
――どちらが良いか、まだ言えない。
◇
三十一の鉤は、四日かかった。
この一本は、金物屋に納められたものではなかった。四年前、レンツが街で測ったものだ。
誰の持ち物かは、板に書いてある。
東門の近くの、荷置き場の吊り具だった。
行ってみると、まだ使われていた。
「これ、いつからありますか」
荷置き場の親父は、面倒くさそうに答えた。
「知らん」
「どこで買いましたか」
「クヴァントんとこだ。それは覚えてる」
「なぜ覚えているんですか」
「安かったからだ」
彼は言った。
「あの年、鉄が安くてな。クヴァントが割安で回してくれた」
レンツは、その言葉を書き留めた。
「鉄が安かった、というのは」
「鉱山が荒れた年だ。四年前……いや、五年前か」
親父は思い出しながら言った。
「新しい坑を掘ってな。最初のうちは、出てくる鉱石が妙だったらしい。安く出回った」
◇
クヴァント工房に戻って、その話をした。
「ああ、あったな」
クヴァントは頷いた。
「五年前だ。ローテアーダーが新しい筋を掘った。しばらく質が落ちてた」
「使いましたか」
「使ったさ。安いんだから」
「同じように打てましたか」
「打てたよ」
彼は言った。
それから、少し言い直した。
「……打てたつもりだった」
「違いましたか」
「一年くらいで、また元の鉄に戻った。戻ったとき、なんか楽になった気がしたな」
クヴァントは炉を見た。
「妙な話だが、悪い鉄のときは、体が疲れた」
◇
レンツは、板を繰った。
四年分の記録の中に、その時期のクヴァント工房の品が七点ある。
数を拾い出す。
二十二。十九。三十一。二十四。二十。二十六。二十三。
通常の山は、九から十六だった。
この七点は、十九から三十一。
全部、上に外れている。
「クヴァントさん」
レンツは板を見せた。
「この時期のものは、全部硬いです」
「全部か」
「七点、全部です」
クヴァントが板を覗き込んだ。読めないはずだが、覗き込んだ。
「……鉄か」
「おそらく」
「じゃあ俺のせいじゃねえな」
彼は少し笑った。
それから、笑いを消した。
「いや、待て」
「はい」
「鉄が変わったなら、打ち方を変えなきゃならんかったのか」
レンツは、答えなかった。
クヴァントが顔を上げた。
「俺は、同じに打ってた」
「はい」
「鉄が変わったのに、同じに打ってた」
彼は炉のふちを掴んだ。
「変わったことを、誰も教えなかった」
◇
その夜、レンツは板に一行書いた。
――変わったものを、書いておく。
二十九は、人が変わった。
三十一は、鉄が変わった。
どちらも、変わったこと自体は誰かが知っていた。クヴァントは弟子に打たせたと知っていたし、鉄が安かったことも知っていた。
だが、それを書いていない。
書いていないから、後から結びつけられない。
半年前に誰が打ったかは、削りの癖でしか辿れなかった。五年前に鉄が変わったことは、荷置き場の親父の記憶が頼りだった。
「イルゼさん」
「はい」
「うちの工房で、去年から変わったものを、全部書き出せますか」
彼女は考え込んだ。
「井戸は変わりました」
「他は」
「他は……」
イルゼは眉を寄せた。
「思い出せません」
「はい」
「思い出せないってことは、変わってないってことじゃないんですか」
「変わったことを、覚えていないだけかもしれません」
レンツは言った。
「井戸も、俺が聞くまで忘れていました」
イルゼが、口をつぐんだ。
◇
四十四の鉤は、見つからなかった。
五日かけた。
持ち主は分かった。三年前に測ったもので、川向こうの製材所の吊り具だ。
だが、そこから先が辿れない。
いつ買ったのか、誰も覚えていない。製材所の主人は代替わりしていて、前の主人は二年前に死んでいた。
クヴァント工房の帳面にも、それらしい記録がない。線が引いてあるだけの帳面では、いつ何本作ったかしか分からない。
六日目の朝、レンツは板を並べて座っていた。
「まだやるんですか」
イルゼが言った。
「……はい」
「もう五日ですよ」
「あと三日で、心当たりを潰せます」
「潰したら、分かるんですか」
レンツは答えられなかった。
潰しても、分からないかもしれない。
三年前のことだ。記録がない。証言する人間が死んでいる。
彼は板を見ていた。
四十四。
一本だけ、理由が見つからない。
◇
その日の午後、エーベル工房から使いが来た。
替えた鉤の話ではなかった。
弟子が、鉄を運ぶ台車の輪を壊したという。それで作業が止まっていると。
「ついでに、見てほしいと」
イルゼが言った。
「行けますか」
レンツは、四十四の板を見た。
それから、目の奥の重さを測った。
今日はまだ、十本ぶんは視られる。
彼は立ち上がった。
「行きます」
「四十四は」
「保留にします」
レンツは言った。
イルゼが、彼を見た。
「いいんですか」
「よくありません」
彼は板を束ねた。
「ですが、今の俺が使える時間には、幅があります」
「幅」
「一日に視られる数と、歩ける距離です」
レンツは言った。
「四十四に三日使えば、その三日、他は視られません」
彼は板を袋に入れた。
「分からないものは、分からないと書いて置いておきます。書いておけば、いつか誰かが埋めます」
「……誰かって、誰ですか」
「分かりません。……ですが──」
レンツは続ける。
「俺かもしれません」
◇
エーベル工房への道で、イルゼが言った。
「三本のうち、二本は分かりましたね」
「はい」
「それで、いいんですか」
「よくありません」
「さっきもそう言いました」
「はい」
レンツは歩きながら言った。
「ですが、二本分は減らせます」
彼は指を折った。
「人が変わったら、書く。鉄が変わったら、書く。それだけで、この二本は起きなくなります」
「四十四は」
「起き続けます」
レンツは言った。
「起き続けますが、それが一本だと分かっています」
イルゼが立ち止まった。
「……分かってると、何か違うんですか」
「違います」
彼は言った。
「今までは、全部が分からないものでした」
◇
その夜、レンツは板に書いた。
三十九。炉に入れすぎた。理由あり。
二十九。人が違った。理由あり。
三十一。鉄が違った。理由あり。
四十四。理由、不明。
そして、山。
九から十六。理由、不明。
彼は、この二種類の「不明」を見ていた。
四十四は、探せば見つかるかもしれない不明だ。記録がないから辿れないだけで、そのとき何かが起きている。
山は、違う。
条件を全部揃えても残った。二度やって、二度とも残った。
探しても、見つからないかもしれない不明だ。
同じ「分からない」なのに、性質が違う。
レンツは炭を握り直した。
二本の線を引いた板を、もう一度引き出す。
――揃えれば消える分。
――揃えても消えない分。
その下に、彼は書き足した。
――分かる不明と、分からない不明。
書いてから、しばらく見ていた。
言葉が足りない。
この二つを呼び分ける言葉が、この世界には、まだない。
今回もお読みいただきありがとうございます!
今回、三本のうち二本に理由が見つかりました。
一本は、打った人が違いました。
一本は、鉄が違いました。
どちらも、変わったこと自体は
誰かが知っていました。
ただ、書いていなかっただけです。
変えたことを書いていないと、あとから結びつけられません。
これを過去トラと呼んだりしますね。
そして、最後の一本。
レンツは五日かけて、見つけられませんでした。
そして、探すのをやめました。
これは敗北でしょうか。
限られた時間で全部は追えません。
追える二本を潰して、追えない一本は書いて残す。
「分からない」と書いて残すことは、何も書かないこととは違います。
そして、レンツの記録板には、二種類の「分からない」が並びました。
探せば見つかるかもしれない、分からない。
探しても見つからないかもしれない、分からない。
この二つを呼び分ける言葉が、まだありません。
――名前がないものは、区別できません。
次回、レンツはその言葉を探しはじめます。




