残り香
元々、ハティはそれなりに裕福な子爵家の令嬢だった。
衣食住に困ることなく、必要以上の教育を受け、そこそこの贅沢を楽しむ幼少期だったと記憶している。
ところが、ハティが十歳になる前。突然父が出奔し、母が自死した。
両親は違法な薬物を売買する取引に手を出しており、国の一斉摘発の対象者だったという。
爵位や資産はすべて取り上げられ、ハティの生家はあっさりなくなった。
年の離れた姉は、ハティの手を引き共に修道院に身を寄せた。
その後、ひたむきな姉は迎えに来た元婚約者の令息の元へ嫁ぐことができ、幸せに暮らしているはずだ。
姉は一緒にと言ってくれたが、ハティは自分の存在が荷物であることを自覚していた。
笑顔で見送って一切の連絡を断ち、居場所を知られないために修道院も出た。
そして、日雇いの仕事などをしながらその日暮らしをし、娼館にたどり着いたのだ。
我ながら波乱万丈だが、正直、ハティには平民になってからの記憶の方が強い。
令嬢だった頃をあまり覚えていないので、これが当たり前の日常だった。
ただ、叩き込まれた教育が身についていたのは助かった。
お陰で、苦労人な姉に余計な迷惑をかけずに、身一つでやってこれた。
ハティは、今の日々に満足している。多くを望まないとも言えるが。
諦めることは生きていく上で不可欠だったし、求める先もなかったから。
それでも、足りない足りないと嘆くより、よほどハティの性に合っている。
姉の幸せを願い、今に望みすぎない自分を、ハティは存外気に入っているのだ。
「おまえは愛いねえ」
売れっ子の男娼ディオンが、呆れたように笑う。
長い絹のような淡緑の髪が、はだけた肩を滑った。金の猫のような瞳がきゅっと細くなる。
「望んだってバチは当たらないだろう」
「そうですね」
「恋や楽しいことをお探しよ。まだ若いのに、仕事ばかりじゃあもったいない」
そんなことを言ったって。困ってしまったハティが眉を下げるのに、ディオンは煙管の灰を落としつつ、色っぽい流し目をやる。
「俺が教えてあげようか?」
「えーと、それは店主様が許してくれそうなことですか」
「許可があることなんてつまらないだろう」
ハティを重宝する店主は、男娼たちが彼女にちょっかいをかけることを厭う。
単純に可愛がるならいいが、怪しげな道に誘うのは絶対に許さない。
分不相応なほど、とても大事にしてもらっている。
加えて、ハティの姉が伯爵家出身の夫を持っていることも、店主は気がかりらしい。
まかり間違って姉がハティの令嬢としての存在を欲した時、貞操を守っていないと価値がない。
そんなことを、遠回しに言われたことがある。
正直、ハティは考えすぎじゃないかなと思っているが、身元保証人の店主の意向を無視はできない。
────差し出される手は、もう何度目だろう。
ディオンは時折り、こうしてハティを誘う。おそらく、彼から見たハティが哀れなのだと思う。
仕事以外にやりたいこともすべきこともない、空っぽなハティのことが。
年上の兄貴分として、人生の楽しみを一つでも教えてやろうと思ってくれているのかもしれない。
手を取りたいと、思わないわけじゃない。
色っぽくて優しくて、ハティなんかをいつも気遣ってくれるあたたかい人だ。
きっと、楽しいと知っている。ディオンとのひと時は、どんなことより。
でも。
「追い出されちゃ困ります」
「俺が? おまえが?」
「…………わたしが」
「おまえは嘘が下手だねえ」
ようやく手を引いたディオンが、仕方なさそうに笑う。
百戦錬磨の人気者と一緒にされても困る。ハティは世間知らずの未熟者だ。
「執着しなさいよ、もっと自分に」
くしゃくしゃとハティの髪をかき回してから、ディオンは香りを残して背を向けた。
いつも眠る時に傍にあるのと同じ、真夜中のような深みのある甘い香りだった。




