プロローグ・君を呼ぶ声の先で
馬を走らせる風の音が耳を打ち、胸の内側が落ち着かない波立ち方をしていた。
視察隊からの急報を受けた瞬間、レオンの身体は考えるより先に動いていた。報告役の兵が口ごもりながら告げた「矢襲」と「負傷者多数」という言葉。その中に、小さく紛れ込むように聞こえた「王女殿下」の名が、脳裏で何度も反響している。
(間に合ってくれ)
それ以外の言葉が浮かばない。
国境へ続く道に入ると、土煙の向こうに景色が変わっていくのが見えた。つい先ほどまで牧草が広がっていたはずの草原は、ところどころ黒ずんでいる。近づくほどに、地面に伏した兵の影が増えた。
鉄と血の匂いが重なり合い、乾いた風に乗って鼻腔に押し寄せる。人の声が途切れた草原には、さっきまであったであろう馬の嘶きや兵の声もなく、風が草をなでる音だけが妙に響いていた。
レオンは馬を止め、鞍から飛び降りる。足元には、盾と折れた槍が無造作に転がっている。
紋章入りの胸当てに毒矢が刺さったまま動かない兵士。
喉を切り裂かれた騎士の傍には、まだ抜かれていない剣が落ちている。
衣に刻まれた槍傷は、狼国の武具でつけられるものに酷似していた。鋼の削り方、刃の幅、傷口の形。そのどれもが教本で見た「敵国の槍痕」と一致している。だが、あまりに模範的すぎる痕跡が逆に不自然だった。
(これは、そう見せたい相手がいる傷だ。誰かにそう思わせるための印)
判断は自然にそこへと落ち着く。宰相が水面下で動かしているという影の部隊。狼国との争いを望む者たち。王都で耳にしてきた不穏な噂が、ばらばらだった形をひとつに組み上げていく。
だが今は、真相よりも先に確かめるべきものがあった。
(……リアナは?)
名前を呼びかける声が喉で止まる。声帯が動く前に、胸の奥が冷たく縮こまった。
地面に散った血の筋が、草の上で線を引くように延びていた。
靴底がその一部を踏み、ぬめる感触が伝わる。風が草葉を押し分け、色の異なる布の切れ端が覗いた。
薄紅の刺繍。王女用に仕立てられた外套の裾にだけ施される花模様。昔、試着を嫌がる妹を宥めながら一緒に選んだ糸の色だった。
それだと気づいた瞬間、胸の中央にぽっかりと穴が開いたような感覚が走る。心臓の辺りから血が引いていくのに、指先だけが熱を帯びて痺れる。
足は勝手に動いた。
血の跡を辿るように、レオンは草原を駆ける。倒れた兵の身体を踏まぬよう、半ば跳ぶようにして進む。耳元で鎧の金具が鳴り、呼吸が荒くなるのも構わなかった。視界の端で、負傷兵たちの手が助けを求めるように伸びている。救護班を呼ばねばならないと頭では理解しているのに、その思考は「今すぐではない」と脇へ追いやられていった。
風が一段と強く吹き抜けた先。
草地に横たわる少女の姿があった。
薄紅の外套が泥に汚れ、金の髪が土に触れている。
世界の色が一瞬で変わった。音が消えたように感じたのは、鼓膜ではなく、心の方が現実を拒んだからだと、すぐに理解する。
「リアナ」
名前を絞り出した瞬間、喉の奥が焼けるように痛んだ。
レオンは膝をつき、地面に手をついた。指先に湿り気が絡みつく。草の上に広がった血が、彼の手袋を赤く染めていく。
リアナの髪は土に貼りつき、白い頬には血の飛沫が斑点のように散っていた。
胸元の裂け目から流れ出た血が衣を濡らし、か細い呼吸の動きがその布をわずかに持ち上げては沈めている。
「リアナ!」
もう一度呼びかけると、その声に応じるように、彼女の瞼がかすかに上がった。
焦点を結びきれない瞳が彷徨い、やがて兄の輪郭を捉えた途端、唇の端がわずかに緩む。
痛みに耐える顔の中に、安堵の色だけが小さく浮かんだ。
(……来てくれたのね。兄様……)
声にならない言葉が、その表情からはっきりと伝わる。
レオンは震える手で外套をかき寄せ、裂けた部分を押さえようとした。血の流れを止めようと、布越しに圧をかける。だが、指先から伝わる体温は頼りなく、掌に広がる液体は止まる気配を見せない。
「喋らなくていい。今すぐ治癒師を呼ぶ。だから――」
言葉を並べながら、自分でもそれが空虚な音に過ぎないと分かっていた。傷の深さは、訓練で何度も見せられた致命傷のそれと同じだ。
たとえ霊術を使える治癒師を連れてきても、この場に到着するまでの時間を考えれば、間に合わない可能性の方が高い。
(これは……救える傷じゃない)
そう理解する理性と、認めたくない感情が胸の内で激しく衝突する。
リアナは兄の手を探し、掴もうと指を動かす。力の抜けたその仕草が、いっそうレオンの胸を締めつける。
だがレオンは慌てて彼女の手を包み込んだ。細い指先が震え、その震えが腕から肩へ、そして心臓へと伝わっていく。
「……泣かないで、兄様……」
掠れた声が風に紛れる。途切れ途切れの息のあいだを縫うように、言葉が無理やりに抽き出されていた。
「あなたの強さは、私の誇り……ずっと……」
最後まで言い切る前に、喉の奥で音が途切れた。
胸元の動きが止まり、握っていた指から力が抜ける。瞳から、色がすっと引いていく。
「リアナ」
レオンは呼びかけた。だが返事はない。
もう一度、その名を呼ぶ。唇は動くのに、声にならない。
涙は溢れなかった。悲しみという形になる前に、感情そのものが凍りついてしまったようだった。
身体のどこかが痛むはずなのに、その場所を特定できない。
(強くあれ。弱さを見せるな。王族は、誰の前でも折れてはならぬ)
幼い頃から、何度も父王に叩き込まれてきた言葉が、骨の内側から這い上がってくる。
泣きたいと願う自分と、その願いを容赦なく押し潰す声が、同じ胸の中に同居していた。
腕の中で息を引き取った妹に、なにひとつ返す言葉が見つからない。
「……リアナ」
やっとのことで漏れたのは、名を呼ぶそれだけだった。謝罪も、約束も、その先に続くはずの言葉はどこにも見当たらない。
言葉を紡ぐ役目を担ってきた王族としての自分が、今この場で最も必要とされている瞬間に、何も差し出せないでいる。
周囲では、遅れて到着した兵たちが負傷者を運び出し、救護の準備に走り回っていた。
狼国の槍傷を調べる者。
報告書をまとめる書記官。
指示を飛ばす隊長。
そのどれもが、レオンの目には曇った膜越しの光景としてしか映らない。
ただひとつ、腕の中で冷え始めた身体の重みだけが、確かな現実として残っていた。
風が草原を渡り、血の匂いを運んでいく。
どこかで誰かが祈りの言葉を口にした気配がしたが、その内容は耳には届かなかった。
レオンは、妹の名を心の中で何度も呼び続ける。声にならない呼びかけだけが、胸の内側で反響していた。




