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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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プロローグ・矢雨の始まり

 牧草の匂いが残る国境道を、視察隊の列が緩やかな弧を描いて進んでいた。

 夜露を含んだ草が馬蹄に押し倒され、土と緑の匂いが混ざり合って立ちのぼる。

 陽が高くなる前の澄んだ空気に、蹄鉄の音が一定の間隔で重なり、草地には細く長い影が幾筋も並んでいた。

 リアナは鞍の上で体勢を整え、周囲の地形を確かめる。

 右手にはなだらかな丘、左には低い石垣が折れ曲がりながら続き、その先に国境標の杭が点々と立っている。

 訓練で何度も地図を眺めてきた場所だが、こうして自らの目で見ると、紙の線は大地の起伏と重みを持った境界へと姿を変えていた。

(ここが、兄上と父上の守ってきた線……)

 胸の奥に、小さな緊張と誇りが同居する。王宮で書類に並んだ文字を追うだけだった日々から、今は一歩踏み出している。その実感が、馬の背で揺れを受け止める腰に、静かな力を宿していた。

 前方では護衛隊長が合図を送り、随行する書記官が板に今日の行程を書き留めている。兵たちは周囲を警戒しながら一定の距離を保ち、馬の鼻面を抑えながら進んでいた。すべては、王族を外へ連れ出す時の基本の陣形だ。

(このような陣を、兄上は何度も率いてきた)

 そう思うと、背筋に自然と力が入る。今日は、ただ守られているだけの妹で終わらない。国の一部を預かる者として、自分の目と耳でこの境を覚えて帰るつもりでいた。

 その時だった。

 風を裂く鋭い音が、横合いから耳を切りつけるように走った。

「矢だ、身を伏せろ!」

 張りつめた叫びが、列の上を一気に駆け抜ける。それと同時に、前を行く護衛のひとりが馬上から前のめりに崩れ落ちた。

 リアナは反射的に馬腹に足を食い込ませ、身を低くする。視界の端で、倒れた護衛の肩に突き刺さった矢柄がぶるりと震え、地面に転がった瞬間、鏃の根元から紫の液が散った。

(……毒矢!)

 訓練で何度も教え込まれた色だった。森で採れる有毒草を煮詰めた薬が塗られている。ほんの掠り傷でも血に混じれば命に関わると、師から何度も聞かされてきた。

 理解が身体の芯まで落ちると同時に、第二、第三の矢が空を裂き、視察隊へ向けて矢雨が降り注いだ。

 兵たちは即座に刀を抜き、馬を押さえようと声を張る。だが矢は隊列のあいだの隙間を抜け、肩や脇腹を容赦なく射抜いていく。背後で倒れた護衛の喉から短い息が漏れ、別の兵が血で濡れた腕を押さえて膝をついた。

 さきほどまで整っていた陣形は一瞬で乱れ、誰が指揮を執っているのかも判然としなくなる。

「王女殿下をお守りしろ! 盾を前へ!」

 号令は飛ぶが、その声に重なるように、さらに矢が飛来する。リアナは馬の首筋に身を寄せながら、矢の飛んできた方向へと目を凝らした。

 国境道を見下ろす高台の岩場。その影に、人影が数人伏せているのが見える。革を重ねた狩猟服は光を吸うように沈んだ色で、腕の角度と矢の軌道は、素人が放ったものではないと告げていた。

(……訓練された狙撃手だわ)

 王宮で耳にした噂が、脳裏を過ぎる。

 狼国との緊張が高まるなか、宰相が密かに動かしているとされる影の部隊。表向きの命令系統から外れた存在。彼らが国境視察隊を狙う理由はひとつ。

 狼国の仕業に見せかけて、火種を作るため。

 高台では、弓を引く男の隣で、別の男が動いていた。手にした短槍の刃は、獣王国北部で造られる特有の鈍い光沢を帯びている。倒れた護衛の亡骸へと槍先を滑らせ、矢傷の上から新たな傷痕を刻みつけていく。その動きには迷いがなく、異国の武具で切り裂かれたように見せかける手順が、周到に準備されているのがはっきりと分かった。

(この槍の金属……狼国の鍛冶場でしか見ない合金)

 見習いの頃、武具庫でこっそり眺めては叱られた記憶が甦る。

 姿を偽るつもりなら、彼らは本物の狼国の槍を手に入れているということだ。その徹底ぶりが、背筋を冷やす。

 その瞬間、リアナの馬が鋭い嘶きを上げた。耳元すれすれを矢がかすめ、馬体が強い恐怖に弾かれたように跳ねあがる。

「落ち着いて、だいじょう――」

 手綱を引き、声をかけようとした言葉が、最後まで形にならなかった。

 暴れた馬が後ろ足で立ち上がり、鞍が大きく傾いた。身体が宙に放り出され、景色が天地を反転させながら流れていく。

 地面に叩きつけられた衝撃が背骨を駆け上がり、肺の中の空気が一気に押し出された。

 耳鳴りが強くなり、世界が一瞬白く弾ける。

「リアナ殿下!」

 誰かの叫びが聞こえた気がしたが、その方向を確かめる前に、胸の辺りで鋭い熱が弾けた。

 倒れ込んだ身体の脇を、なにかが掠める気配が走る。地面に転がった槍の柄が視界の端に入り、刃先に血が伝っていた。

 落馬した瞬間を狙って、高台の男か、混乱に紛れた刺客か――とっさに投げつけられたのだと理解するより早く、その傷が身体の内側へ重い痛みを押し込んできた。

(刺さって……いる)

 胸元に震える手を伸ばすと、裂けた衣の下でぬめりとした感触が指に絡んだ。

 手袋越しではない、生々しい濡れ方が、槍の刃が皮膚の奥まで届いた事実を突き付ける。遅れて、焼けつくような痛みが広がった。

 呼吸をしようと胸を持ち上げるたび、傷口の内側でなにかが擦れ合い、全身が拒むように強張る。

 息が浅く、胸郭がうまく動かない。視界がぼやけ、緑の草原が水を垂らされた絵の具のように滲む。

(……まだ、終われないのに……)

 声が形にならない。兄に報告するはずだった今日の景色。

 王都で待つ人々に持ち帰るはずだった「無事」の知らせ。

 それらが、指の間から砂のようにこぼれ落ちていく感覚が、痛みとは別の冷たさとなって胸に沈んでいく。

 耳の奥で鼓動が重く響き、その音さえ遠のき始める。周囲では馬が暴れ、兵たちが駆け寄る足音が確かにあるはずなのに、音の厚みは薄れていく一方だった。

(……兄上……)

 心の底で呼んだ名前だけが、最後まで鮮やかに残る。

 幼い頃、転んで泣いた時に差し出された手。

 訓練場で何度も見上げた背中。

 その全てが、一瞬のうちに胸の内側へ押し寄せ、指先が小さく震えた。

 視界の端で、護衛の一人がこちらに手を伸ばしてくるのが見えた。その指先に触れる前に、世界の色がすっと遠退いていった。

◇◇◇◇◇

 同じ頃、視察隊から距離を置いた森陰では、狐族のユラが弓を握ったまま立ち尽くしていた。

 木々の間に差し込む日の筋が、不意に歪んむ。

 鼻先をかすめた異様な気配に、彼女の耳がぴくりと動く。

 森の奥から吹く風とは違う、底冷えのする空気の流れが、毛並みを逆立てるように走った。

 木と木の間に漂う空気が、墨を垂らした水のように濃さを増し、黒い霧が帯状になってうねる。

 陽光が届くはずの場所なのに、そこだけ影が喰い込んだように色を失っていた。

(……霊脈の濁り?)

 ユラは目を細め、弓弦から指を離さぬまま気配の流れを読む。

 狐族の一部は、生まれつき大地を流れる霊脈のゆがみに敏感だとされている。

 彼女も幼い頃から、足元を走る見えない川の揺らぎを感じ取ることができた。

 だが今目の前で渦巻いているのは、自然に生まれた濁りではない。

 霊脈の上に、誰かの意志が無理やり押し付けられたような歪みだった。

 黒い霧の輪郭はすぐに薄れたが、残されたのは、嫌悪にも似た冷えた感触だけだった。

(誰かが、この辺りの流れに手を入れた?)

 霊術師か、それに準ずる者。しかも、国境近くで大規模に術を動かせるほどの力を持つ存在。

 ユラは舌の奥に苦味を覚える。これほどの痕跡を残す者が、森の静けさを乱しただけで済ませるはずがない。

 彼女は弓を握り直し、視察隊のいる方角へと馬を向けた。

「嫌な気配だ」

 小さく呟き、鞍に身を預ける。狐族の斥候として、彼女は今日、視察隊から少し離れた位置で周囲を見張る役目を任されていた。

 外様である彼女たちに、王族のすぐ側を任せないのは宮廷の暗黙の決まりでもある。

 それでも、危うい気配を感じたなら、黙って見過ごすつもりはなかった。

 馬腹を軽く蹴った瞬間、足元の地面が低く唸った。

 遠雷のような、くぐもった地響きが草原を伝ってくる。

 最初は風の悪戯かと思ったが、すぐにそれが多数の蹄と足が一斉に崩れた音だと察した。

 視察隊の陣形が乱れ、いくつもの身体が地に倒れていく気配は、森からでもはっきりと分かった。

 ユラは馬の首を叩き、さらに速度を上げる。狐族特有の敏捷な身体が、木々の間を縫うように駆け抜ける。

(お願い、間に合って。――あの王女には、今、死なれては困るの)

 胸の奥で言葉を刻みながら、彼女は草原の開けた先へと走り出した。


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