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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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プロローグ・炎の底に触れた影

 腕の中でリアナの身体が静かに沈んでいく。かつて何度も抱き上げた幼い頃の軽さは消え、残っているのは血に濡れた外套と、息を落とした直後の冷たい静寂だけだった。

 頬が触れる位置まで抱き寄せても、反応はない。自分の腕の中で命が途切れたという事実は、思考のどこにも収まりきらず、胸の奥で鋭い痛みになって跳ね返ってきた。

(どうして……守れなかったのだ)

 声に変えられるはずの叫びが喉の奥で絡まり、ひりつくような熱だけを残した。押し殺してきた感情が堰を切り、世界の輪郭がゆがみ始める。呼吸の音さえ胸に刺さるような苦しさだった。

 草原を渡っていた風が、ふと止む。空気が静まり返った瞬間、レオンの頭の中にあった決壊の音が外へ漏れた。

「――ぁぁあああああッ!!」

 声という形では収まらず、胸の底から噴き上がった力が火花となって散った。

 次の瞬間、黄金の炎が足元から輪を描くように広がり、周囲を巻き上げていく。視察隊の残骸に触れた炎は、爆ぜるように膨れあがり、霊脈の層へ叩きつける轟きとなって空気を震わせた。

 炎は陽の色を帯びているはずだった。

 しかし、その中心にだけ異質な火が生まれる。

 煤を押し固めたような黒が滲み、金の輝きをじわりと侵食していく。

 駆けつけた獣人たちは、迫る熱にではなく、その黒い火が放つ〝名前のない気配〟に足を止めた。喉の奥に本能的な恐怖が走り、誰も声を出せない。

 黒い火には熱の揺らぎがない。燃えているのに、周囲には熱が生まれない。世界の裏側に触れるような冷たさだけが、皮膚の下へ深く沈み込んでくる。

 地面から乾いた音があがる。炎が触れた草土は焦げることなく、色を奪い取られたように白くひび割れ、その割れ目は深く沈み込み、底には薄い闇の膜が揺らめいていた。

(……世界が裂けている?)

 ユラは息を呑んだ。

 黒い火は一定の形を持たず、波紋のように歪みながら広がる。その広がり方は炎というより、理から滑り落ちた影が世界に染み込んでいくようだった。

 レオンの身体を中心に霊脈が軋む。大地の奥を流れる気の線が引き伸ばされ、なにかに耐えるように震え、空気の層には細い断裂が走る。草原の色が変質し、風の音の奥に低く、くぐもった唸りが混じる。

 黄金の炎が高く舞い上がるたび、黒い残滓も引きずられるように形を歪ませる。火と影のあいだで世界が引き裂かれそうになり、地面の傷はさらに深く刻まれていく。

「……リアナ……」

 悲しみを帯びたレオンの声は、炎へ吸い込まれた。

 腕の中の小さな身体は動かない。幼い頃、泣き出した妹を抱き寄せたときに感じた温度は、もうどこにもない。

 胸の奥に、父王が繰り返し刻んだ言葉が蘇る。

(強くあれ。泣くな。王族は揺らいではいけない)

 それは幼い頃から繰り返されてきた在り方。

 その教えが今、心を締めつける鎖となり、悲しみを形にする動きを奪っていく。

 炎の渦がさらに膨れあがり、レオンの周囲で空気が不穏な層をつくる。黄金の光と黒い影が混ざり合い、境界のない暴風のように荒れ狂う。

 その中心で、レオンは抱きしめた妹から手を離せずにいた。

(失うはずではなかった。かならず守ると誓ったのに……)

 胸の奥で掻きむしるような痛みが広がる。母を失った日、剣を握って初めて血を見た日、自分が王家の跡継ぎとして立つべきだと知った日――そのどれとも違う。

 今目の前にあるのは、取り返しのつかない現実だけだった。

 レオンの肩が微かに震える。そのわずかな揺らぎが、炎の勢いをさらに強める。霊脈の層が悲鳴を上げるように軋み、黒い影が渦の底から浮かびあがった。

 黒の火は、炎の形を取ることすらやめていた。

 気体でも固体でもなく、触れればなにかを侵食するだけの無の塊。それが地面に触れた場所は、焼け焦げるのではなく、存在を削り取られたように白い裂け目だけが残る。

 ユラは距離を取りながら、仲間たちに肩で制止の合図を送った。

「近づかないで。あれは……霊の火じゃない」

 狐族が本能で恐れる禁の気配が肌を刺した。

(あの王子は、本当に自身の身だけであのような炎を?)

 疑念と恐怖と、説明のつかない悲哀が胸を通り抜ける。

 炎の中心でレオンは顔を伏せた。

 腕の中のリアナの肌は冷え、その重みだけが確かな現実として残っている。震える指で彼女の頬に触れようとした瞬間、黒い影が反応するように揺らめいた。

 まるで、レオンの心に寄り添うかのように。

 その動きは、炎の制御がレオンの精神に密接に結びついていることを示していた。

(心が軋むほど、影が深まっている?)

 ユラは喉を鳴らした。まだ言語になる前の本能が危険を訴えている。

 レオンの肩が再び震えた瞬間、黒い影が炎の中で跳ねた。

 まるで、痛みに同調するように。

「……リアナ」

 掠れた声が土に落ちる。

 その名を呼んだレオンの声は、炎ではなく影に吸い込まれた。黒が一瞬だけ濃くなり、世界の隙間が軋むような音が走る。


 次の瞬間だった。

 黒い火が弾け、影の破片が空へ舞いあがった。火花のように見えたそれは、音もなく消え、残ったのは、焼けた跡ではなく、喰われたような空白の地面。

 草も土も色を失い、白い円が草原の中心に刻まれた。

 レオンの炎が緩やかに萎み始める。黒い影は薄れていき、黄金の色だけが残り、最後にはそれも消えた。

 風が戻ったとき、世界は一瞬、別の場所のような顔をしていた。

 空気が乾ききり、草原の一部だけが白く抜け落ちている。

 その中心で、レオンはリアナを抱いたまま動かずにいた。

 彼の瞳にはなんの色も宿っていない。ただ、現実と向き合いきれず、怒りと悲しみの狭間で彷徨う影だけが揺れ、微かな震えとなって肩を伝っていた。

(妹を失った王子は、このまま災厄になるかもしれない)

 ユラの背筋に冷たいものが走る。

 草原を包む風が、誰の祈りも届かない空気を運んでいった。


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