小さな命の予感
その日も、昨日と同じように暑い日だった。
朝から胃がむかつき、何も口にしたくなかった。
イーライが、ユウの部屋に訪れ、いつものように薬湯を差し出した。
ユウは口元まで運ぶが、薬草の匂いが鼻についた瞬間、吐き気が込み上げる。
「……っ」
慌てて口元を押さえ、器を戻す。
「どうされましたか?」
「わからないの。昨日までは飲めたのに」
そう言って、もう一度口元まで持っていく。
「やっぱり、ダメだわ」
ユウは、顔を背けて器をテーブルに置いた。
イーライは、黙って器を押しやり、その代わりに
水を差し出した。
ユウは顔を顰めながら、一口飲んだ。
「本日は、杏を焼き込んだ菓子でございます」
その言葉に、ユウの口元が少し綻んだ。
「どうぞ」
イーライは、いつものように紅茶を淹れた後に差し出す。
ユウは、いつものようにカップを顔に近づけた途端、
急に顔を曇らせた。
香り高い紅茶の香りが、妙に鼻につく。
慌てて、カップを置き、ケーキの皿へ手を伸ばした瞬間、
普段、気づかないバターの香りが重く感じた。
「ごめんなさい……今日は無理」
ユウはそう呟き、顔を伏せた。
紅茶の香りも、バターも、そして、部屋の隅に生けてある見事な白ゆりの花の香りも、
好物の杏ですら、受け入れなくなった。
「体調はいかがですか」
イーライは、慎重に声をかけた。
「調子が悪いの」
ユウは力なく、首をふる。
「医師を呼んで参ります。
キヨ様にも、体調が優れないとお伝えします」
イーライは、頭を下げた。
イーライが部屋を出た後、ヨシノがユウににじり寄る。
「ユウ様、まさか……」
ユウは、ゆっくりと顔を上げた。
「私も同じことを思っているわ。……でも、違うかもしれない」
この症状が、妊娠なのか、それとも、体調不良なのか、わからない。
でも、明らかに体が変だ。
「でも……もし、そうなら嬉しいわ」
ユウは、そっとシュリを見上げた。
シュリは何も言わず、小さく頷いた。
◇
「ユウ様の体の調子が悪いようです」
その日の夜、イーライがキヨに告げた。
「なんと!医師はなんと申した?」
キヨは思わず立ち上がる。
「暑さで疲れたのか、と」
イーライが頭を下げる。
「確かに、今年はいつもより暑いわ。お気の毒だわ」
ミミは、眉を寄せた。
「それなら……今夜は寝室には来ないのか」
キヨは、慎重に質問をした。
「はっ」
イーライが頭を下げると、キヨはわかりやすく気落ちをした。
「そんなに気落ちしなくても……元気になれば、再び夜を過ごせます」
ミミが呆れ半分、苛立ち半分でキヨに告げる。
「わしは、楽しみにしていたのじゃ」
キヨは肩を落としたまま、つぶやいた。
「それで、薬湯は飲んだの?」
ミミは、呆れたようにキヨを横目に見ながら質問をした。
「飲みません」
「なぜ……?」
ミミは首を傾げ、キヨは顔を上げた。
イーライは分厚い帳面を開いた。
「昨日より顔色も優れません。ユウ様は、月のものが半月以上遅れております」
その言葉に、部屋が静まり返った。
「子ができたのか?」
キヨにしては珍しく、静かな声だった。
ミミは、思わずドレスを握りしめた。
イーライは首を振る。
「まだ、今の状態ではわかりません。
医師も、体の疲弊で月のものが遅れることは、よくあることと説明しておりました」
「そうか……でも、もしかすると……ひょっとすると」
キヨが落ち着かない様子で足を組み直した。
「夏負けかもしれませんし、ご懐妊の兆しかもしれません。今はまだ判断できません。
子がいれば強い薬湯も出せないので、様子を見ている最中でございます」
イーライが話す言葉を、ミミは唇を噛み締めて頷いた。
◇
その日を境に、ユウは食べ物を受け付けられなくなった。
イーライは薬湯だけでなく、水や果汁、口当たりのよい飲み物まで用意した。
しかし、どれもユウは手をつけなかった。
やがて寝台に横になる日が続き、水を口に含んでも、すぐ吐き気が込み上げた。
「ユウ様、お水を」
ヨシノが必死に匙を出す。
青白い顔をしたユウは、顔を力なく横に振る。
「……気持ち悪いの」
そう呟く声は、力がなかった。
「ユウ様、お願いですから」
ヨシノは今にも泣きそうな顔で縋り付く。
「姉上! 冷たい水よ。飲んだら美味しいわ」
レイも必死に声をかける。
ユウは小さく首を振り、目を閉じた。
座っていても、横になっても、気持ちが悪かった。
「ユウ様!」「姉上!」
二人が縋り付くのを、シュリは手で制した。
「少し二人にしてもらえますか」
シュリが声をかけた。
寝室の扉を閉じると、シュリは寝台に上り、ぐったりするユウを起こし、自分の胸にもたれさせた。
「シュリ……」
重たげにユウが瞼を上げると、シュリはそっと髪に唇を落とした。
「ユウ、水を飲まないと体が衰弱する」
「……わかっている」
ユウは呟く。
シュリは匙を、ユウの口元まで持っていく。
「一口だけ、飲んでみようか」
ユウは少しだけ口に含んだ。
喉を通っただけで、吐き気が込み上げる。
それでもユウは、必死に飲み込んだ。
「もうちょっと、飲んでみようか」
シュリは再び匙を持っていく。
量にしてはわずかだけど、口にすることができた。
◇
寝室を出たヨシノは、顔を手で覆った。
「どうしたら、いいの?」
隣にいたレイも、声を震わせた。
ヨシノは必死に記憶をたぐる。
ーーひょっとして、あれなら。
その時ーーカチッと小窓が開く音が聞こえた。
ドアを開けると、イーライが深く頭を下げていた。
隣のワゴンには、ユウが口にできそうなものを集めた
グラスが並んでいた。
白ゆりはすでに部屋から下げられている。
香り一つでさえ、ユウの負担にならぬよう、イーライが静かに手配していた。
「今日も……いかがでしょうか」
イーライが声をかけると、ヨシノが無言で首を振る。
「……左様でございますか」
ヨシノは覚悟を決めたように息を吸った。
「イーライ様、国王にお願いがあります」
ヨシノが真剣な顔で、話した。
次回ーー明日の20時20分
命を繋ぐため、すべてが動き出す。
ユウを救う希望は、母が遺した一つの記憶。
そして、その裏で静かに疑念を抱く者がいた――。




