忘れられない人
3日後ーー
「今夜は静かですね」
エドガーが囁く。
シュリは黙って頷く。
城壁前に並ぶ松明は、以前のような異様な数ではなく、普段通りの配置に戻っていた。
「……罠があるかもしれません。参りましょう」
エドガーが頷き、低い城壁のそばに近づいた。
「これなら、縄がなくてもよじ登れる」
シュリは見上げて、壁を乗り越えた。
西棟の庭にたどり着くと、
遠くから虫の音が絶え間なく聞こえ、静まり返った庭には花の甘い香りだけが漂っていた。
月明かりに照らされた石畳が淡く白く浮かび、夜風が木々を優しく揺らしている。
「庭にも兵がいるのか?」
「ここは西棟ですので、庭に男の兵は入れないようになっております」
エドガーの説明に、シュリは頷く。
若い男の兵が、主の想われ人に手を出さないための牽制だ。
コンコンーー
ユウの部屋の窓ガラスを叩くと、すぐに窓が開かれる。
シュリの様子を見届けたエドガーは、踵を返そうとした瞬間ーー窓ガラスにもう一人の影が近づく。
レイが、夜の闇に溶け込むような黒髪を揺らしながら、
静かな表情で口を開いた。
「あなたも入って」
「私も、ですか?」
エドガーが目を見開く。
「そうよ、入って」
レイは、すでにソファの方に足を向けていた。
「今夜の警備は、どうだった?」
「今日は楽でした」
シュリが頷く。
「それは、イーライが警戒を緩めたの?」
レイが、シュリとエドガーに対して、座るように促す。
「それは、そうよ。私がそうさせたんだから」
ユウは、得意そうに顎を上げる。
その表情を見て、シュリとレイは苦笑いをして顔を見合わせた。
「今夜は、あなたと話をしたかったの」
レイは、口元にまだ笑いを残したままエドガーを見る。
「……私ですか」
エドガーは琥珀色の瞳を細めた。
「そう、リチャードのことを教えて」
レイは頷く。
エドガーは、すぐには口を開かなかった。
琥珀色の瞳を伏せ、小さく息を吐く。
「……何を知りたいのでしょうか」
「彼は、私の前では冗談ばかり言う。
でも、それだけの人には思えないの」
レイが話すと、エドガーは苦笑した。
「ええ。その見立ては間違っておりません」
「夜の女性と仲良くしてると聞いているわ」
「何?そんな話を、リチャードはレイにしたの?」
ユウは信じられないと言わんばかりの顔で話す。
「そうよ。私のことをウブで頑なと言ったわ」
レイは、ツンと頭をそびやかす。
「それは……主が失礼しました」
エドガーは居心地悪そうに座り直す。
「信じられないわ。夜の女性と遊ぶなんて、軽薄よ」
レイの顔は憮然としていた。
「……リチャード様は、ああ見えても真面目な方です」
エドガーは落ち着かない様子で頭を掻く。
「そういう女性と夜を過ごすことが、真面目なの?」
ユウが氷のような冷たい目線で、エドガーを見つめる。
ーーまずい。
隣に座るシュリは、顔が引き攣った。
この姉妹の機嫌を損ねると、大変なことになる。
エドガーは観念したように、小さく息を吐く。
「……確かに、お二人から見れば軽薄に映るでしょう」
「そうよ」
レイは即座に頷いた。
「ですが、リチャード様は女性を弄ぶために通っているわけではありません」
部屋の空気が、わずかに変わる。
「どういうこと?」
ユウが眉をひそめる。
「リチャード様は、寂しさを紛らわせているのです」
エドガーが目を伏せた。
レイとユウは顔を見合わせた。
それは二人が想像していた遊び人の姿とは、どこか違っていた。
「リチャードは、奥さんがいたんだ」
以前、聞いた話を思い出し、シュリが控えめに話す。
「奥様がいたの?!」
ユウとレイは同時に叫んだ。
「はい。身分違いの差を乗り越えて結ばれたのですが、
争いの際に亡くなってしましました」
エドガーの説明に、部屋はしんと静まる。
「亡くなられた……」
レイの声がこわばる。
「お子もおります。
リチャード様は、毎週のように手紙を書いております。
……離れていて寂しいのでしょうね」
エドガーの説明を聞きながら、
不意にレイは昼間のリチャードの顔を思い出した。
軽口を叩き、誰にでも笑顔を向ける。
けれど、ふとした瞬間だけ、その笑みの奥に寂しさを滲ませる眼差しを見せていた。
——あの目は、演技ではない。
「……やっぱり、私の見間違いじゃなかった。
あの人、時々、とても寂しそうな目をするの」
レイはポツリとつぶやく。
「リチャード様は、奥様をとても大事にされておりました。
彼女は女中でしたので、人目を忍ぶように逢っていたものです」
エドガーは、どこか懐かしそうに話す。
「だから、エドガーは潜入が得意なのか」
シュリが声をかけると、エドガーが苦笑いをする。
「ええ、鍛えられました」
「奥様が忘れられないのも、お子を大切にするのも理解したわ。
でも、それと、夜の女性とはどういう関係があるの?」
ユウは手厳しい。
「それは……リチャード様曰く、『想いと下半身は別物だ』と仰っております」
エドガーが言いにくそうに話す。
誰もすぐには言葉を返せなかった。
シュリが「ははっ」と思わず笑いをこぼした。
「……リチャードらしいな」
ユウとレイは顔を見合わせる。
「普通の人が言ったら、軽蔑するところだけれど……」
ユウは呆れたように息を吐いた。
「リチャードが言うと、不思議と嘘には聞こえないのよね」
レイも苦笑する。
「はい。
リチャード様は、今でも奥様を大事に想っております」
エドガーが静かに答えた。
「だからこそ、リチャードは、こうして協力をしてくれているのだと思う」
シュリが頷く。
「はい。リチャード様も仰っておりました。
ユウ様とシュリ様は、昔の自分たちを見ているようだ、と」
◇
「シュリ……」
目元を紅く染めながら名を告げるユウを、シュリは強く抱きしめた。
全てが終えたあと、ユウはぐったりと放心したように目を閉じていた。
シュリは、ユウを抱きしめながら
金の髪に頰を預けていた。
しばらくして、ユウは気怠そうに瞼を開いた。
「大丈夫ですか」
心配そうに問いかけるシュリに、ユウは小さく頷く。
やがて、
「授からないわ」
ポツリと言葉を漏らす。
それは、子のことだと、シュリはすぐに理解した。
「子を授かるには、人それぞれだと、母から聞きました」
「もっと、すぐ授かるものだと思っていたのよ」
ユウは力なく言った後に、口元を尖らせた。
「……オレは、子が授からなくても、ユウとこうしていれば……」
シュリは、そう言ってユウを抱き寄せた。
ーーこんなことを言うのは、不謹慎だとわかっていた。
けれど、思わず溢れでた本音だった。
「……私も」
ユウは、シュリを見上げた。
そっとシュリの頬へ手を伸ばす。
二人はしばらく言葉を交わさなかった。
見つめ合うだけで、互いの想いが静かに伝わっていく。
シュリは吸い寄せられるように、その唇を塞いだ。
その年の夏は、暑かった。
やがて朝方に、秋の気配を感じ始めた頃、
ユウの体に、小さな変化が訪れた。
次回ーー明日の20時20分
「このままでは、ユウ様が危ない」
体調は悪化する一方。
ヨシノは、キヨへ決断を迫る。




