忘れないまま生きる
「イーライは、妾がいるの?」
沈黙が落ちる。
「あなたは重臣よ。
奥様が妊娠中は、妾と子作りをするのが普通でしょ」
ユウは真っ直ぐに、イーライを見つめた。
その眼差しが耐えきれないように、イーライは目を伏せた。
「……おりません」
ユウの目は瞬く。
「いないの?」
「私には不要です」
俯いた拍子に、黒い前髪がはらりと落ちた。
二人の間に、心地よい夜風が吹いた。
沈黙が落ちる。
しばらくして、ユウが口を開いた。
「私の父もそうだったの。妾を求めず、母だけを想っていたわ」
ユウが夢見るように、夜空を見上げる。
イーライは黙って立ち尽くしていた。
「イーライの奥様は幸せ者ね」
月明かりの元、銀色の光を帯びたユウが微笑む。
その笑顔が耐えられなかった。
「……私の妻は幸せではないです」
イーライは、ポツリとつぶやく。
どうしてーーそう言わんばかりに、ユウはイーライを見つめる。
イーライは、ユウに顔を向けずに苦しそうに話す。
「……私は妻を持ち、子を授かっても……忘れられない人がおります。
たとえ、他の女性と交わらなくても、常に、ここに彼女がいるのです」
イーライは、自分の胸に手を当てた。
ユウは何も言わずに、イーライの横顔を見つめる。
「何度も忘れようとしても、忘れられない。
妻を大事にしたいと思っても、彼女のことばかりを考えてしまう。
そんな男が、夫なら妻は不幸だ」
ーーそこまで……。
近くで2人を見つめていたシュリは思わず息を呑んだ。
イーライがユウを想っていることは知っていた。
けれど、妻を娶り、子を授かってなお、忘れられない。
そこまで深いものだとは思っていなかった。
思わず、大木の幹を握る手に力が入る。
ーーなのに。
ユウ様は、気づいていない。
目の前にいる相手のことだとは、欠片も思っていない。
「……それなら、その女性を妾にしたら?」
ユウは真面目に質問をする声が聞こえた。
イーライは苦く笑った。
「それが叶う相手なら、これほど苦しみません」
ユウはイーライの顔を見つめた。
笑っているけれど、泣いているようにも見える。
ずっと苦しみの中で、もがいている男の顔だった。
「私の母はね、亡き父を想いながら再婚をしたの」
「……ゴロク様でしょうか」
「ええ。イーライは会ったことがあるの?」
「キヨ様に命じられて、交渉を行いました」
「義父は良い人だったわ。母を想ってくれた。
私たち姉妹を大切にしてくれたの」
「はい」
「母だってわかっていたわ。
義父が良い人だって。
想われていることも。
でも、亡き父を忘れることはできなかったの」
「ゴロク様は、お歳を召していましたし……」
イーライが遠慮がちに口を開いた。
ユウは静かに首を振った。
「たとえ、若くても、ハンサムでも、母の心は揺れなかったと思うの。
嫁ぐ前に、母は私に言ったの。
忘れないまま、生きてゆかねばならない、と」
「忘れないまま……生きていく」
イーライの声は掠れていた。
ーーこの胸の想いを消そう。
想ってはいけない。
ずっと争っていた。
それができなくて、苦しんでいた。
「その言葉を聞いたのは、私が14歳だったの。
全く納得がいかなかったわ。
けれど、母が言ったの。
姫として生まれたのならば、生き方にも責任が伴う、と。
家のため、領のため、私たちの未来のため生きるのだ、と
……今なら、少しだけわかるわ」
ユウは静かに息を吐いた。
イーライは何も言わずに佇んでいた。
その黒い瞳は、ユウを見つめていた。
「それとね。母がもう一つ言っていたことがあるの」
「なんでしょうか」
「想いがない方が、妃としての仕事を全うできる、と。
良い領地を作りたいと思うなら、情はない方がいいのかもしれないわ」
イーライは静かに目を閉じた。
ーー自分も重臣という立場についた。
それゆえに無責任な振る舞いはできない。
「けれど、自分の気持ちに嘘をつけないわ。
イーライ、自分をいじめたらダメよ。
忘れられないのなら、忘れないまま生きなさい」
ユウは穏やかに微笑んだ。
イーライは返事ができなかった。
その言葉は、胸の奥深くへ静かに沈んでいく。
ーー忘れなくても、いい。
その考え方は、一度もしたことがなかった。
忘れなければならない。
忘れられない自分は罪だ。
そう言い聞かせながら、この五年間を生きてきた。
妻にも、子にも、あまりにも不誠実だ。
けれど。
「忘れないまま、生きる……」
掠れた声が、自分でも気づかぬうちに零れた。
その言葉を何度も胸の中で繰り返す。
胸を締めつけ続けていた縄が、少しだけ緩んだような気がした。
イーライは静かに目を閉じる。
深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
そしてようやく、小さく頷く。
「……そうですね」
もう一度だけユウを見つめる。
「私も、自分で自分を許すことにいたします」
イーライは、ふっと口元を緩めた。
月明かりの元で、彼の黒い瞳に柔らかい光を帯びるのが見えた。
「忘れないまま、それでも重臣として生きてまいります」
ユウは、その言葉の重さに気づくことなく、小さく微笑んだ。
「そうね」
無邪気に笑うユウの姿を見て、イーライは微笑んだように見えた。
「ユウ様、私は今夜、秘密を打ち明けました」
「ええ」
「それでは、今度はユウ様の番です」
「私?」
ユウが首を傾げる。
イーライは一歩だけ近づいた。
その黒い瞳は、ユウをまっすぐに見つめている。
月明かりが二人の間を静かに照らす。
手を伸ばしかける。
しかし、その指先は宙で止まりーー
「ユウ様の秘密を教えてください」
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回の「忘れないまま生きる」という言葉には、二つの原点があります。
一つは、前作 『妾たちの城に嫁いだ母は、娘たちを守り抜く(秘密を抱えた政略結婚)』 で、
シリが再婚を前に娘たちへ語った場面。
エピソード42 「忘れないまま生きていく」
そしてもう一つは、若きイーライとサムが使者としてノルド城を訪れ、
シリとゴロクに初めて対面した場面です。
第236話「沈黙が告げるもの」です。
今回のイーライの想いは、この二つの出来事があってこそ生まれたものです。
ご興味がありましたら、ぜひ前作も読んでいただけると嬉しいです。
https://ncode.syosetu.com/n0514kj/
次回――明日の20時20分
重臣としてではなく、一人の男として。
イーライが下した決意が、運命を大きく動かし始める。




