黒いドレスと嵐の夜
サムが空を見上げる。
西の空から押し寄せた黒雲が、みるみる山を覆っていく。
「シュリ、すぐに支度をするんだ」
「はい!」
シュリは、草の上に干していた衣類を素早く回収した。
陽の温もりを感じる衣類をしまう時には、
冷たい風がすっと吹き抜け、額にかかる髪を揺らした。
急いで荷物をまとめ、その上から油布を掛けた。
「ユウ様!雨具を!」
ユウは言われるがまま、雨具を羽織った。
「城へ戻りましょう」
イーライが号令を出す。
「夕方まで持てばいいが」
サムが眉を顰め、手綱を握る。
四頭の馬が山道を駆け出す。
最初は穏やかだった風が、次第に肌を刺すような冷たさを帯び始めた。
シュリが空を見上げる。
黒雲が、まるで山を呑み込むような速さで流れてくる。
「急ぎましょう」
その声が終わるか終わらないかのうちに、
強烈な稲妻が黒い空を裂いた。
次の瞬間――
ゴロォォン――!
腹の底まで震える雷鳴が山々に響き渡った。
馬たちが一斉に耳を伏せ、不安げにいななく。
「参ったな」
サムが手綱を強く握り直す。
次の瞬間だった。
バサァッ――!
突風が木々を大きく揺らし、枝葉が激しく舞い上がる。
ユウは思わず目を閉じた。
「きゃっ!」
雨粒が一つ、頬に落ちる。
二つ。
三つ。
それは瞬く間に土砂降りへ変わった。
滝のような雨が森を叩き、視界が霞む。
「前が見えません!」
シュリが叫ぶ。
風はさらに勢いを増し、木々が軋む音が辺りへ響く。
「全員、馬を寄せろ!」
イーライの声が雷鳴に負けないほど鋭く響いた。
稲妻が空を裂き、一瞬だけ山道が昼のように白く照らされる。
その光の中で、イーライは周囲を見渡した。
「……あそこだ!」
木々の奥に、苔むした小さな山小屋が姿を現した。
「避難します!」
四頭の馬は、激しい雨の中、山小屋へ向かって駆け出した。
山小屋の隣には、古びてはいるが木造の納屋があった。
「助かったな」
サムがため息をこぼす。
雨具から滴り落ちた水が、納屋の乾いた床へ染みを広げていく。
ユウは濡れた馬のたてがみを優しく撫でた。
「馬の世話は私がする。先に部屋に入れ」
サムは乾草を与えながら話す。
イーライとシュリ、ユウは激しい雨の中、小屋まで駆けた。
イーライが扉を押し開けると、湿った木の香りが鼻をくすぐる。
室内は思っていたより狭い。
飴色に変わった木の壁に、小さな窓が一つ。中央には古びた机、隅には毛布が積まれている。
正面には石造りの暖炉があり、その脇には乾いた薪と焚き付けが整然と積まれていた。
「助かりました」
イーライは小さく呟き、焚き付けを暖炉へ組み始める。
イーライは焚き付けを暖炉へ組み、火打石を打った。
やがて藁に火が宿り、小枝へ、そして薪へと燃え移る。
暖炉の熱が少しずつ、冷え切った部屋を温めていった。
「ユウ様、着替えを」
シュリは濡れた雨具を脱がせる。
雨具のおかげで濡れてはいないものの、衣類には湿気が染み込んでいた。
ヨシノが用意した衣類を包みから取り出し、シュリが手渡すと、ユウは目を丸くした。
「このドレス……母上のもの」
それは、母シリが着ていた作業用の黒い簡素な衣類だった。
「そのようですね。普段お召しのドレスでは水を含めば重くなりますし、皺も残ります。
これは丈夫で乾きやすく、多少乱暴に扱っても構いません」
「……ヨシノってすごいのね」
ユウは衣類を手に取りつぶやく。
「そうですね。今回の件で逆らえないと気づきました」
2人の小さな笑い声を聞きながら、イーライは薪を一本追加した。
「着替えを……」
そう言った後に、シュリは視線が彷徨う。
この小屋には、他に部屋がなかった。
「私たちが後ろを向いている間に、お着替えください」
イーライは目を伏せて話す。
「そうね」
ユウは乗馬服のボタンに手をかけたので、
シュリは慌てて声を出す。
「早すぎます!」
シュリとイーライが、背を向けたのを確認して、ユウは乗馬服を脱いだ。
背中越しに、衣擦れの音が静かに聞こえてくる。
その音を聞くだけで、シュリの鼓動は妙に速くなった。
ーー落ち着け。
着替えを待っているだけだ。
そう自分に言い聞かせても、耳は無意識に後ろの気配を拾ってしまう。
シュリは、ふと隣のイーライを盗み見た。
暖炉の炎に照らされた横顔は、いつものように冷静だった。
だが、硬く結ばれた口元と、
暖炉の炎を見つめたまま微動だにしない横顔は、その胸中を物語っている。
ーーあいつも、平静ではないのか。
やがて、衣擦れの音が止んだ。
――終わったのか。
シュリは、ほっと息をついた。
広い城内ならともかく、この狭い山小屋では、一つ一つの物音が妙に耳につく。
「シュリ」
声を掛けられ、振り向く。
荷袋から縄を取り出していたイーライも、同時に振り向いた。
二人の視界に飛び込んできたのは、着替えの途中のユウだった。
黒いドレスを肩まで引き上げているものの、背中の合わせはまだ開いたまま。
白く滑らかな肌が、暖炉の炎に淡く照らされている。
「背中のボタンが止められないの」
困ったように笑うユウに、シュリは小さく息を吐いた。
――こんなことができるのは、自分しかいない。
サムもイーライも、重臣なのだから。
「……承知しました」
目を伏せたまま近づき、震えそうになる指で背中のボタンを一つずつ留めていく。
その間、イーライは何事もないような顔をして、
縄を取り出し、小屋の壁へ掛け始めた。
決してこちらを見ようとはしない。
けれど、シュリが最後のボタンを留め終えた瞬間、ふと視線が交わった。
ほんの一瞬だけ。
その瞳の奥に、隠しきれない嫉妬の熱が揺れていた。
「シュリ、濡れた衣類をここに」
それを打ち消すように、イーライは梁に渡した縄を見上げながら、話す。
「はい」
シュリはユウの乗馬服、そして、自分たちの雨具を干した。
ユウは暖炉の前に立ち、濡れた髪を布で拭いていた。
イーライは、じっとユウを見つめていた。
飾り立てたドレスよりも、黒い簡素な衣の方が、彼女の美しさを際立たせていた。
金色の髪も、白い肌も、澄んだ青い瞳も、暖炉の火に照らされて息を呑むほど美しかった。
その時、馬の世話をしていたサムが小屋に戻った。
扉を開けた途端、激しい雨風が吹き込み、暖炉の火が揺れる。
「すごい雨風だ」
サムは、風に押されながら扉を閉める。
「今夜は、ここに泊まった方が良いですね」
イーライが頷く。
「そうだな」
サムが振り返ると、暖炉の前に佇むユウの姿を見て息を呑んだ。
暖炉の火に照らされ、金色の髪がやわらかく煌めく。
意志の強さを宿した青い瞳と、薔薇の蕾のような唇。
黒い質素なドレスに包まれた細身の姿は、若き日のシリを思い起こさせた。
「シリ様……」
その名が、無意識に唇からこぼれた。
もう五年になるというのに。
「あ……」
我に返ったサムは、小さく頭を下げた。
「失礼しました。あまりにもシリ様によく似ておられましたので」
「そんなに似ている?」
ユウが自分の袖を見下ろす。
「はい」
サムは静かに頷いた。
「そのお姿を見た瞬間、時間が巻き戻ったような気がしました」
その言葉に、シュリも懐かしそうに微笑む。
「この服で、シリ様はよくレーク城を駆け回っておられました」
ユウは黒い袖をそっと撫でた。
「……私は、もうすぐ母上が嫁いだ年齢になるわ」
少しだけ俯く。
「……母上に、会いたい」
ーーキヨの妾になった現状を、母が知ったら。
どんな顔をするだろうか。
それは想像もしたくないことだった。
部屋の中が静まり返った。
暖炉の薪が、ぱちりと音を立てる
「シリ様にお会いしたいのなら、鏡を見れば良いのです」
シュリがサムの雨具を干しながら話す。
「え?」
ユウが顔を上げた。
「……そうすれば、いつでもシリ様に会えたような気がします。
ユウ様は本当に似ているから」
「そうね」
少し切なげにユウは微笑んだ。
「夕食は、包の中のもので賄えそうです」
動揺を押し隠すように、イーライが静かに口を開いた。
包の中には、固めの丸パンが四つ。
塩気の利いたローストチキン。
硬いチーズ。
小瓶に入った杏のジャム。
そして、乾いた布に包まれた茶葉まで入っていた。
「ヨシノは本当に抜かりがないな。
着替えだけではなく、夕食に茶葉まで用意している。まるで一泊することまで見越していたようだ」
サムが包みをみて、笑う。
「確かに……。母さんには勝てません」
シュリも苦笑する。
「あぁ。ヨシノの勘には誰も敵わん」
ユウも思わず吹き出した。
「ふふ、本当にそうね」
イーライは静かに頷いた。
「では、この茶葉を淹れましょう」
イーライが湯を沸かし、茶葉の香りが部屋に漂う。
夕食は、ユウの希望で皆で食べることになった。
ユウはパンにチーズとチキンをのせて、
そのままかじる。
「美味しいわ」
ふっと微笑む。
「イーライ、美味しい紅茶だ」
サムが頷く。
「ありがとうございます」
「毎日、こんな風に暮らしたら良いのに」
ユウがぽつりとつぶやく。
暖炉を囲み、他愛ない話をして。
ただ、それだけの日々。
「……なんてね。夢物語だわ」
ユウは照れくさそうに呟いてパンを再び頬張った。
夕食が終わり、窓の外は雨が小降りになってきた。
「明朝には晴れるか、と」
イーライは、ユウのために床に布を広げた。
「ここでお休みするしか……」
申し訳なさそうに眉を寄せるイーライに、ユウは微笑んだ。
「イーライ、ありがとう」
シュリは扉のそばの壁にもたれた。
サムは床に寝転ぶ。
ユウは横になり、暖炉の火を見つめた後、
寝返りをして、シュリを見つめた。
ーーすぐ、そばにいるのに触れることもできない。
視線に気づいたシュリは、小さく頷いた。
ユウは毛布にくるまりながら、瞼を閉じた。
疲れと冷えで、あっという間に眠りに落ちた。
どれほどの時が経ったのだろうか。
夜中にユウが目覚めると、暖炉から炎がゆらゆらと揺れている。
誰かが眠らず、薪を足してくれていたらしい。
少し体を起こすと、窓の外ではいつの間にか雨が止み、大きな月が煌々と輝いていた。
「お目覚めですか」
低い声が聞こえ、振り返ると、イーライが窓の下の壁にもたれていた。
ユウは、しばらく月を見つめた。
「ええ。見事な月ね」
「そうですね。陽が登れば城に戻れそうです」
イーライも窓の外へ目を向けた。
急に、ユウは立ち上がった。
「どこに行かれるのですか」
「綺麗な月だから、外に行って眺めたいの」
扉に進むユウの背を、イーライは慌てて追いかける。
「お待ちください。夜半の外出は危険です」
サムとシュリを起こさないように声を顰める。
「それなら、イーライもいるから安全ね」
ユウはわずかに顎を上げる。
イーライは、何か言いたげに口を開いたが、
すぐに苦笑いを浮かべた。
「承知しました」
ユウとイーライは、そっと扉の外に出た。
扉が閉まり、小屋に静寂が戻った。
サムは目を閉じたまま、二人を追おうとはしなかった。
イーライの胸の内には、とうに気づいている。
だからこそ、二人だけにするつもりだった。
やがて、扉のそばで眠っていたはずのシュリが静かに身を起こす。
音を立てず、二人のあとを追って外へ出ていった。
ーーシュリも、だったな。
幼い頃からユウのそばにいたあの青年もまた、主従だけでは片づけられない想いを抱えている。
サムは暗い天井を見つめ、小さく息を吐いた。
ーー若い者には、若い者の夜がある。
そう胸の内で呟き、今度こそ瞼を閉じた。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
今回は通常の約2倍の文字数になりました。
実はかなり削ったのですが、それでも収まりきらず、この長さに……。
おかげさまで本作も約84万文字となりました。
ここまで読んでくださる皆さまのおかげで、ここまで書き続けることができています。
本当にありがとうございます。
次回――明日の20時20分
月夜の下、ユウが投げかける新たな問い。
その答えが、イーライの心を大きく揺さぶる――。




