「イーライ、ここに来て」
泉から出てきたユウは、髪の毛から水が滴り、濡れそぼっていた。
真夏とはいえ、そのままにしておくわけにはいかない。
シュリは、濡れた洋服のままサムの馬の元に駆け寄る。
そこには、母が出発直前に手渡した荷物があるはず。
包を解くと、そこから着替えの乗馬服、簡素なドレスが出てきた。
「さすが、ヨシノだな」
背後でサムが、感心したように話す。
「母さんは、泉に行くと聞いてから気を揉んでいました。
……きっと、こういう展開になるかと思っていたのです」
「これはなんだ」
サムがさらに小さな包みを手にした。
「それは……きっと下着だと思います」
シュリは頰を染めた。
背後では、イーライは迷うことなく荷袋を開き、防水用の油布を取り出した。
大木の枝へ縄を掛け、油布を渡して四方を囲む。
雨風だけでなく、人目も遮るように張られた布は、簡素ながら十分な更衣所になっていた。
「お着替えを。こちらなら人目はございません」
ユウに声をかけた。
シュリは、替えの乗馬服と小さな包をユウに持たせた。
「濡れた下着は、この包みにしまってください」
念を押すように伝えた。
ユウが着替えに入ったところを見届けると、
イーライは森に散らばる乾いた小枝を手際よく集めた。
枝の太さを見極めながら円錐形に組み上げると、火打石を打つ。
一筋の火花が枯れ草へ落ちる。
炎が消えぬよう静かに息を送り続けた。
赤く燻っていた火種は、やがてぱちりと音を立て、小さな炎へと変わった。
荷袋から折り畳み式の鉄製三脚を取り出し、火の上へ据えた。
銅のケトルを吊るすと、湧き水が静かに温められていく。
「シュリ、お前も早く着替えろ」
サムに促され、
シュリは自分の馬に括り付けられていた包の荷を解く。
そこには着古した自分の衣類が入っていた。
「オレの着替えは必要ない、と母さんに言ったのです。
でも、母さんは無理やり、着替えを詰め込みました。
『どうせ濡れる』と言って聞かなかったんです」
「あぁ。今後、ヨシノには逆らわない方がいいな」
サムが口元を緩めた。
シュリは、頷いて水で張り付いたシャツを脱いだ。
水を吸った布はずっしりと重く、肌に張り付いていた。
サムの視線が、ふと止まる。
「……シュリ」
「はい?」
「その背中……」
シュリは息を呑んだ。
「傷があるな」
思わず肩が強張る。
「そうですか」
シュリは背中を隠すように、素早く前を向いた。
「枝にでも引っ掛けたか?」
サムは何気ない調子で尋ねる。
シュリは一瞬だけ視線を泳がせた。
「……その、少し前に」
曖昧に笑って答える。
サムはそれ以上聞かなかった。
「そうか」
短く頷いただけだった。
だが、視線はほんのわずかに揺れていた。
――枝、か。
あれは、そんな傷には見えなかった。
細く、幾筋も残る引っ掻き傷。
まるで、人の爪でついたような……。
サムは胸の内だけで呟く。
――ひょっとして。
しかし、それ以上は考えまいと首を振った。
若者には、若者の事情がある。
シュリは目を伏せながら、濡れたシャツを絞った。
ーーサム様は気づいているのだろうか。
彼は、ユウ様の父母に仕えていた古老の重臣だ。
穏やかだけど、聡い。
自分が誰を想っているのかーー知っているはずだ。
シュリは、思わず喉を鳴らしそうになった。
ーーまさか。気づかれたか?
次の瞬間、その疑惑を拭い去る。
傷を見ただけで、相手がユウ様だとは思われないはず。
そう言い聞かせる。
「シュリ、ちょっと良い?」
ユウの声が、張られた布から聞こえる。
「失礼します」
シュリはサムに頭を下げ、ユウの元にむかった。
「下着はしまったわ。濡れた衣類はどうすれば良いの?」
ユウが困った顔をする。
シュリは濡れたユウの乗馬服を絞り、それを草の上に置いた。
今日ほど気温が高ければ、きっと乾く。
布から出てきたユウは、新しい乗馬服を身につけていた。
しかし、髪はまだ濡れている。
「お座りください」
シュリはハンカチを敷き、ユウを座らせ、
長い金色の髪を布で挟んで乾かし始めた。
包の中には、櫛が入っていた。
「ヨシノってすごいわね」
「そうですね」
シュリは、そう呟き、金色の髪を不器用に梳かし始めた。
女性の髪を梳かすのは初めてだった。
けれど、幼い頃から母がユウの髪を梳かす姿を、
数えきれないほど見つめていた。
なので、自分で思ったより上手にできている気がする。
「気持ちいいわ」
ユウは瞼を閉じる。
「そうですか」
シュリは、ふっと笑った。
サムは、油布を回収しながら、2人の様子をじっと見ていた。
その眼差しは、わずかに揺れていた。
イーライも、二人を見て茶葉を量る手を止めた。
シュリがユウの髪を梳く手つきは、あまりにも自然だった。
迷いも遠慮もない。
触れられることに慣れている者だけが持つ距離感だった。
ユウもまた、何の警戒もなく瞼を閉じ、その手に身を委ねている。
――近すぎる。
胸の奥に、小さな棘が刺さる。
だが、イーライは何も言わなかった。
静かに視線を外し、銅のケトルへ湯を注いだ。
「昼食の支度が整いました」
イーライは静かに告げた。
イーライは籠から昼食を並べた。
パン、鶏肉、チーズ、そして杏のジャム。
「少々、お待ちください」
温めたティーポットに静かに湯を注ぐ。
「どうぞ」
寸分違わない手つきで、ユウの元に差し出す。
一口飲んで、ユウが微笑む。
「美味しいわ」
「ありがとうございます」
イーライは静かに頭を下げた。
「こんな場所で淹れても美味しいなんて、見事ね」
「どこで淹れても、お茶は美味しくなければ意味がありません」
イーライの声には、静かな誇りが滲んでいた。
サムは満足げに頷き、シュリも一口飲んでみた。
ーー確かに美味しい。
昼食を終えた後、シュリは片付けを始めた。
ユウは静かに立ち上がる。
そして、少し離れた場所で茶器をしまっているイーライへ視線を向けた。
「イーライ」
呼ばれたイーライが顔を上げる。
「はい」
「少し、二人で話したいの」
その一言に、シュリの手が止まる。
サムも静かに顔を上げた。
イーライは何も言わず、ユウを見つめる。
ユウは柔らかく微笑み、もう一度だけ手招きをした。
「……ここに来て」
イーライは静かに一礼すると、ユウのもとへ歩き始める。
その背中を見送りながら、シュリは小さく息を吐いた。
――お願いです、ユウ様。
これ以上、あの人を期待させないでください。
あなたは敵を作りたくないだけ。
けれど、イーライが望んでいるものは、それではない。
次回――明日の20時20分
胸に秘め続けた想いは、ついに言葉になろうとしていた。
しかし、その時――。




