その香りが好き
シュリは息を整えてから、ユウの部屋の窓を叩いた。
待ちかねていたように、カーテンが開き、庭に灯りが溢れる。
「早く中に」
エドガーが囁く。
シュリは頷き、振り返る。
エドガーは、バルコニーに残っているシュリの足跡を布で拭いていた。
「明朝、お迎えに参ります」
「お願いします」
シュリは、頭を下げて部屋に入った。
「誰と話していたの?」
レイが不安げな顔で質問をした。
「リチャードの乳母子、エドガーです。
彼がいたので助かりました」
シュリは慎重な手つきで窓を閉め、カーテンをひく。
黒い衣を纏ったシュリが部屋へ入る。
細身の黒衣は鍛えられた体によく馴染み、一層引き締まって見えた。
レイは何も言わず、その姿をじっと見つめる。
長い沈黙のあと、小さく頷いた。
「……似合う」
「そうでしょうか」
照れくさそうに頭をかくシュリを見て、レイは楽しそうに呟く。
「その格好で歩いたら、城の娘たちが放っておかないわ」
「いや……そんなことは……」
困ったように笑うシュリを、ユウは一瞬だけ見つめ、
視線が合うと慌てて目を伏せた。
「……似合っているわ」
小さくユウが呟いた。
レイはクッションを抱えたまま、二人を見比べ、口元を緩めた。
「姉上、顔が少し赤いね」
「ち、違うわ」
慌てるユウを見て、レイは静かに笑った。
「それより……イーライの守りはあったの?」
ユウは照れ隠しのように、顎を少し上げて質問をした。
「ありました。私が前回、登った塀には兵を固めていました。
エドガーがいなければ、ここまで辿り着けなかったと思います」
シュリは腕をさすりながら、話す。
「……無事で良かったわ」
ユウは顔を強張ったまま、頷いた。
レイは、静かに二人を見て、立ち上がる。
「私、もう寝る」
「もう、寝るの?」
「ええ。だって、お邪魔でしょ」
レイは、そう言い放ち衣装室に入った。
レイが扉を閉めると、部屋はしんと静まり返る。
気まずい沈黙が、しばらくそこに続いた。
シュリは、どう声をかければいいのかわからず立ち尽くした。
ーーこういう場合は、どうしたら良い。
自分から誘う?
いや。だめだ。
できるはずもない。
そんな度胸は、どこにもなかった。
思わずユウを横目で見る。
視線が重なった瞬間、二人は同時に目を逸らした。
ーーこういう時は、どうしたらいい。
恋愛指南書に書いてあった言葉など、とても口にできない。
なのでーー
「ユウ様、準備は整っていますか」
いつもと同じようにシュリは声をかけてみた。
ーー結局、これが一番落ち着く。
「……もちろんよ」
ユウの声は強かったけれど、手はギュッと握りしめていた。
シュリは、立ち上がりユウの前で手を差し伸べた。
「それでは、参りましょう」
シュリの眼差しは、熱を帯びていた。
二人は、寝室にむかった。
寝室には、ユウの香りが強く立ち込めていた。
寝台を見た瞬間、シュリは気づく。
ここまで来るのに、塀をよじ登り、散々駆けた。
ーー汗臭いかもしれない。
そのことに気づき、シュリは少しユウから距離を離した。
「シュリ?」
ユウが怪訝な顔をする。
「……あの……すみません。今日は……」
シュリは、ユウを見つめながら気持ちと裏腹な提案をしてしまった。
「なぜ?」
ユウの目が瞬く。
「いえ……その」
シュリはシャツの胸元を指先でつまみ、己の匂いを嗅いでみた。
自分では、わからなかった。
「何?」
ユウは射るような眼差しで見つめる。
ーーその瞳に見つめられたのなら、逆らうこともできない。
「汗臭いんです」
シュリは観念して、正直に伝えた。
ユウの目が瞬く。
「……それが……どうしたの?」
「ここに来る前に、かなり汗をかきました。
そのような体で、ユウ様に触れることはできません」
シュリは、少し俯いた。
ユウは黙って、シュリに近寄る。
そして、無言でシャツのボタンを外していく。
「ゆ……ユウ様」
シュリは、少し引け腰になる。
三つ目のボタンを外すと、シュリの胸元が露わになった。
ユウはゆっくりと顔を近づけた。
草木と土を思わせる、幼い頃から知っている匂いだった。
ーーやっぱり、この香り。
「昔から、シュリの香りが好きだったわ」
ユウは四つ目のボタンを、ゆっくりと外しながらつぶやく。
「……私は香油をつけてないです」
シュリの声は掠れていた。
「木のような香りがするの」
ユウは最後のボタンを外した。
はだけたシャツの下には、引き締まった胸と、無駄のない腹があった。
毎日剣を振り、走り続けた者だけが持つ、しなやかな体。
ユウは、その胸にそっと額を寄せた。
シュリの体が緊張のあまり、ピクンと動いた。
「ここ……どうしたの?」
ユウの細い指先は、胸元の擦り傷をなぞる。
「先ほど、塀に登ったときに擦ったかもしれません」
シュリは苦しそうにつぶやく。
「そうなの。頑張ったのね」
ユウは、その擦り傷にそっと唇を寄せた。
湿った感触が胸元に広がる。
シュリは思わず肩を震わせた。
心臓が、自分のものではないほど大きく鳴っている。
塀をよじ登った時よりも、息が苦しい。
シュリは、立ち尽くしたまま天井を見上げた。
ーー限界だ。
シュリは、そっと腕の中のユウを見つめた。
「ユウ」
その声に、ユウはゆっくりと唇を離し、顔を上げた。
揺れる蝋燭の灯りが、金色の髪を柔らかく照らしている。
頬はほんのりと赤く染まり、その表情には、いつもの気丈さはない。
不安と期待を抱えた、一人の女性の顔だった。
幼い頃から知っているはずなのに、その姿は眩しくて目を逸らしたくなるほど美しい。
剣を握るときには迷わない手が、今はどうしていいかわからなかった。
「シュリ」
シュリがそっと手を伸ばすと、ユウもためらいながらその手を握り返した。
重なった指先を離さぬまま、もつれるように寝台へ倒れ込んだ。
浅い呼吸を繰り返すユウの頬を撫で、シュリは額にそっと唇を寄せる。
甘い香りを含んだ空気の中で、蝋燭の炎だけが静かに揺れ続けていた。
◇
その頃ーー執務室では。
「館に帰る」
ボタンを一つ飛ばしたまま、イーライは歩き出した。
サムが低い声で呼び止める。
「イーライ」
イーライは足を止め、振り返る。
サムは無言で、自分の胸元を指した。
視線を落としたイーライは、一瞬だけ目を細める。
「……失礼しました」
ボタンを外すイーライに、サムがふっと笑う。
「何か、用事があるのか?」
サムが質問をすると、イーライは無意識に窓へ視線を向ける。
「……何もございません」
「それなら、西領からもらった金銭の確認をしてほしい。
何度か計算盤で確認をしたが、イーライの確認がほしい」
サムは、穏やかな声で話す。
「……承知しました」
イーライは座り、羊皮紙とペンを取り出す。
オリバーが読み上げる。
「西領より金貨198枚。銀貨274枚。銅貨320枚」
イーライは羊皮紙の余白に、迷いなく数字を書き連ねた。
ペンは一度も止まらない。
計算盤に手を伸ばすこともなく、
「金貨換算で227枚と銀貨4枚」
と静かに告げた。
オリバーが計算盤で確かめ、頷く。
「イーライ、見事だ」
ノアが頷く。
「他にはございますか」
声はいつも通り穏やかだ。
「いや、十分だ」
「では、失礼します」
一礼したイーライは、足早に執務室を後にした。
扉が閉まると、サムは静かに息を吐く。
ーー時間にして、引き留めた時間は10分程度だった。
「……ヨシノ、これが限界だ」
次回ーー明日の20時20分
月明かりが照らす夜。
秘密を守る者と、真実へ近づく者。
誰にも知られぬ駆け引きが始まる。




