……行かないで
ユウの確認を終えた後、イーライは自宅へ足を運んだ。
もう、遅い時間だった。
少し欠けた月が、夜の闇の中を煌々と照らしている。
イーライは、熱を帯びた吐息を静かに吐いた。
他のことを考えようとしても、ユウの白い体が脳裏から離れない。
重い秘め事を背負い、玄関の扉を開けた。
扉を開けた音に気づき、アリスがゆっくりと近づく。
ゆるやかに膨らんだお腹を手に添えて、笑顔で迎える。
「お帰りなさい」
微笑む、アリスの顔をイーライは直視できなかった。
「今、戻った」
濃紺の上着を脱いだ時に、甘い香りがアリスの鼻を掠める。
ーーあぁ。まただ。
夫の香りではない、清らかで、少し甘い花の香り。
その香りが体に染み付く理由は、聞けない。
ただ、わかるのは、この香りが夫から漂うときは、
いつも理性的な夫が、情熱的に自分を求める。
「今日は書斎で休む」
イーライは、そう告げて、階段に登ろうとする。
「……どうしてですか」
アリスは、咄嗟に聞いてしまう。
「何でもない。考え事をしたいだけだ」
振り返りもせず、イーライは淡々と答える。
その背中を見た瞬間、アリスの胸が締めつけられた。
ーーまた、一人で苦しむつもりなのですね。
アリスは思わず、イーライのシャツの裾を握りしめる。
「行かないで……」
その声は、泣きそうな声音だった。
「しかし……」
イーライの声は、戸惑っていた。
「大丈夫です。私の体は……平気です」
イーライは、振り向いて声を落とす。
「無理をしなくてもいい。大事なときだ」
苦しそうに答えるイーライの顔を見つめて、アリスは、頑なに首を振る。
脳裏に金の髪の女性が消えて離れない。
「……書斎に行かないで」
涙を堪えて、見上げるアリスに、イーライ切なげに眉を寄せた。
◇
寝室には暖炉の火だけが静かに揺れていた。
アリスは、イーライの背にそっと手を添える。
彼は一瞬だけためらい、それから静かに彼女を抱き寄せた。
広い胸に耳を寄せると、規則正しい鼓動が聞こえる。
甘い花の香りが、まだ微かに残っていた。
彼と夜を迎えるときは、いつもこの香りがする。
胸の奥が少しだけ痛む。
それでも、彼の手は変わらず優しかった。
急ぐことも、自分本位になることもない。
アリスの呼吸や表情を確かめながら、まるで壊れ物を扱うように距離を縮めていく。
――優しい人。
優しくて、誰よりも真面目に生きているからこそ、苦しんでいる。
やがて、堪えるような小さな息が耳元に落ちた。
苦しげに寄せられていた眉が、ほんの一瞬だけほどける。
その表情を見られるのは、自分だけ。
愛おしさと切なさが、胸の奥で静かに溶け合った。
アリスは息を荒げるイーライの額に落ちた黒髪を、そっと指先で払う。
――この人は、誰かを忘れようとしている。
だから今日も、何も尋ねない。
暖炉の火だけが、小さく揺れていた。
◇
翌朝、イーライは寝台から抜け出し、
顔を洗い、黒い髪を梳かした。
黒髪を整える手つきは、今日も一分の乱れもなかった。
「おはようございます」
アリスは寝台から起きあがろうとするのを、イーライは手で制す。
「少し、休んでくれ」
用意した白いリネンのシャツをイーライは袖を通し、
その上から濃紺の上着を手に取る。
襟を整えた後、イーライは俯きがちにつぶやいた。
「……昨夜はすまなかった」
イーライは目を伏せた。
不意にこぼれた謝罪に、アリスは目を瞬かせた。
「どうして謝るのですか」
答えは返ってこない。
代わりに、イーライは黙って袖を通した。
寝台から抜け出し、ガウンを羽織ったアリスは、再び質問をする。
「なぜ、謝るのですか」
「まもなく……産まれるのに……すまない」
イーライは、妻の顔を見つめ小さく頭を下げる。
「……そんなこと、気にしないでください」
アリスは、頬を赤く染め、イーライのマントを手渡す。
マントのボタンを止めようとするイーライの手を、優しく重ねる。
「私がやります」
「このくらい、自分でできる」
イーライは、不思議そうな顔をする。
「じっとしていてください」
アリスはボタンを留め、彼の襟を直す。
イーライは少し困ったような顔をして、黙って任せた。
身支度を終えたイーライを見て、アリスは満足げに微笑む。
「今日も、素敵です。乱れもありません」
「……感謝する」
イーライは、小さく頭を下げた。
「今日も遅くなりますか」
「あぁ」
「お気をつけて」
イーライは、微笑むアリスは見やりながら、うまく笑えているだろうか、と思った。
アリスに見送られて、館を出る。
ーーまもなく、子が産まれる。
もし、あの方を想ってなければーー
アリスに襟を整えてもらい、
子どもに見送られ、穏やかな朝を迎えていたかもしれない。
でも現実は、
自分が身支度を整えたあとに向かう先は、想いを秘めたユウと主が眠る寝室だ。
城に近づくたびに、ユウへの執心が断ち切れぬ切なさが湧き上がる。
◇
同じ頃ーー
隠し小部屋から出てきたヨシノとサムは顔を見合わせていた。
次回ーー明日の20時20分
秘密を守る者と、真実を追う者。二度目の夜が幕を開ける。




