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女の匂いだ

夜明け前、東の空が白み始めていた。


シュリは、足音を立てないように小屋へ戻った。


扉を開けると、母はすでにいない。


ーー母さんは、どんな顔でユウ様の支度を手伝うのだろうか。


昨夜のことを思い出す。


自分が肌に唇を寄せるたび、彼女は小さく息を漏らしていた。


白く震えていた肌は、次第に熱を帯び、

薄く紅を差したように色づいていく。


しっとりと汗をまとったその温もりは、

指先に触れるたび、離れたくないと思わせた。


寝室も、彼女からも、甘い香りがした。


幼い頃から知っている香りだった。


名前は知らない。


ただ、自分にとっては「ユウの香り」だった。


シュリは、その肌と香りに溺れそうになった。


思い出すだけで、恍惚とした気持ちになり、シュリは頭を振る。


顔を洗うため、外の井戸へ足を向けた。


井戸端では、すでに数人の従者が桶を並べている。


誰もが眠そうな顔で、冷たい水を桶に汲み上げていた。


シュリも縄を引き、木桶を持ち上げる。


掌に触れた水は、まだ冬の冷たさを残している。


両手ですくい、顔へかけた。


冷たさに息を呑む。


それでも頬の熱は引かない。


小屋に戻り、木剣を手にして、稽古場がある馬場へ足を運んだ。


油断すると、昨夜のことを思い出し、夢見心地になる。


ーーあれは、昨夜の話だ。


今朝からは、再び乳母子として任務に向き合う。


気持ちを入れ替えるようにして、息を吐く。


馬場に行くと、兵が集まり、皆が稽古を初めていた。


黒いマントを羽織ったイーライが、シュリの方に向かってきた。


彼の見透かすような眼差しで見つめられると、

急に落ち着かなくなる。


「おはようございます」

シュリは、深く頭を下げる。


「あぁ」

イーライが返事をした後、シュリは素早く彼の脇を通り過ぎ、

馬場の端へ向かった。


すれ違いざま、イーライの眉がわずかに寄った。


すぐに表情は消えたが、一度立ち止まり、静かにシュリの背中を見送る。


黒い瞳だけが、普段より僅かに鋭さを帯びていた。


その眼差しを背中に感じたまま、シュリは歩みを早めた。


朝日を背に、シュリは黙々と木剣を振る。


にじみ出た汗が胸元を濡らす。


白い息を吐き出し木剣をふるうシュリに、リチャードはあくびをしながら声をかけた。


「シュリ、おはよう」


「おはようございます」

シュリは答えたが、木剣を振るう腕は止めない。


「相変わらず、熱心なことだ」

リチャードは、シュリの隣に立ち、木剣を構えた。


その瞬間ーー。


リチャードの動きが止まった。


「おい」

低い声を出して、シュリに近づく。


「どうした」

シュリは、木剣を下げた。


「匂うな」


その言葉に、シュリは慌てて額の汗を拭う。


「汗の匂いか」


ーーこのままでは、西棟に戻れない。


「違う」

リチャードの顔は、真剣だった。


「どうした」


「花の香りだ。……女の匂いだ」


その言葉に、シュリは目を見開く。


「……図星か」


こういう場面では、リチャードはいつも揶揄う。


それなのに、彼は、真剣な表情を崩さない。


「すぐに着替えろ」

そう言って、シュリの腕を掴んで、人目を避けるように小屋へ向かう。


リチャードは、どんどん足を早める。


「……そんなに匂うか」

シュリが躊躇いながら話す。


リチャードは足を止めて、振り返る。


「匂う。花の香り……ラベンダーか。これは侍女でも使う。

けれど、もう一つの香りがあるだろ」


「え」


「この香りはネロリだ。庶民や娼婦も使わない。

身分が高い女しか使わない香りだ」

リチャードの言葉に、シュリの顔は青ざめる。


その表情に気がついたリチャードは、小さく頷く。


「その服は、すぐに洗濯したほうが良い。替えの服はあるか」


「……一着だけ」


「すぐに着替えろ。その服は洗え」


幸いにも、井戸端には誰もいなかった。


シュリは、慌てて井戸端でシャツを脱いだ。


細身に見える体つきだったが、肩から背にかけては無駄なく引き締まり、稽古で鍛えられた筋肉が静かに浮かび上がる。


その姿を見たリチャードは、思わず目を丸くした。


「……お前、細いくせに、そんな体してたのか」


「いや……別に」

シュリは恥ずかしそうに肩をすくめた。


「お前、本当に乳母子か? 兵より鍛えてるじゃないか」


無言で木桶を手に取るシュリに、リチャードが怪訝な顔をする。


「何をするんだ」


「水を汲んで、洗濯をします」


「は? 自分で洗うのか」

リチャードが目を見開く。


「使用人は、そうしています」

シュリが桶を井戸まで引き寄せる。


「そ……そうか」

リチャードは目を瞬かせる。


次男とはいえ、領主の子として育った彼にとって、

洗濯は女中がするものだった。


自分の手で、洗濯をするとは考えもしなかった。


シュリが水を引き上げに縄を手にして、背を向けた瞬間、

リチャードは固まった。


「シュリよ」

その声は妙に硬い。


「なんですか」

シュリは、急いで桶に水を注ぐ。


「もう、良い。その服は俺が預かる」


「え」


「だから、すぐに着替えろ」

リチャードの口元は、呆れと緊張が混ざり合っていた。


不思議そうな顔をするシュリに、リチャードは顔を面白そうに顔を歪ませる。


「お前は、あの本を読み尽くしているな」


あの本ーーリチャードが貸した本。


恋愛手引書のことか?


それと、洗濯と何の関係が?


怪訝な表情をするシュリが面白いらしく、

リチャードのニヤケ顔は止まらない。


「お前の背中、随分と引っ掻き傷だらけだ」


「え」

シュリの顔が青ざめる。


確かに、昨夜、ユウは何度も背中に爪を立てた気がする。


シュリは、思わず木桶を放り投げた。


「こ……これは、猫に……!」

シュリは、慌てて拙い言い訳を始める。


「あぁ。その猫は青い瞳だろ」


「いや……その……」

シュリの目が彷徨う。


背後から、洗濯物を抱えた女が現れたので、

シュリは慌てて、シャツを羽織った。


「部屋で着替える」

そう言って、脱兎のように小屋まで駆ける。



数分後ーーリチャードの手には布袋があった。


「すまない」


「構わない。洗濯は侍女がする」

リチャードは気楽に答えた。


2人は、城にむかって歩いていた。


リチャードは、急に足を止めて、真顔でシュリを見つめる。


「香りに気づいたのは……俺だけか?」


その瞬間、イーライの顔が脳裏に浮かんだ。


「あ……」

思わず口元を覆う。


「どいつだ」


「イーライだ」


リチャードは、思わず天を仰ぐ。


「あいつか。面倒だな」


シュリは無言で頷く。


「香りは、目に見えるものではない……。

けれど、それで秘密が漏れることもある」

リチャードの声は低かった。


シュリは俯く。


「今後は、洗濯物は俺に持っていこい。今のお前は、無防備すぎる」

リチャードは肩を軽く叩いた。


「……すみません」


頭を下げるシュリに、リチャードはニヤッと笑った。


ーー何も問わない。


咎めない。


普段通りの彼の態度が、心からありがたいと思った。


けれどーー。


あの夜のことを、イーライに気づかれたのではないか。


シュリの心に、黒雲が広がった。


次回ーー明日の20時20分


幸せな朝。そして、静かに動き出す疑念――。

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