触れるな
「離れろ!」
静かな部屋に、鋭い声が響く。
キヨは濁った目で、声がする方に顔を向けた。
その口元は濡れている。
顔を上げると、
そこには、目に憎悪の黒い炎を燃え上がらせているレイがいた。
「姉上に触るな!」
煮えたぎる感情を目に宿している。
次の瞬間ーーキヨは息を呑んだ。
相手がレイだからではない。
幻想が見えたのだ。
彼女は、かつて滅ぼした男の面影を濃く引き継いでいた。
父であるグユウの面影ーー凪いだ黒い瞳に、何を考えているかわからぬ表情ーーそれがレイだった。
しかし、今はその男の面影はない。
その瞬間だけ、キヨには主君のゼンシの面影が重なって見えた。
「手を離せ」
その声音も、佇まいも、眼差しも、ゼンシだった。
「ひ……」
思わず声が震える。
慌てて、目を逸らし、ユウの胸元から手を離し、距離を置いた。
そして、視線を外したのはその時点で貫禄負けをしていたことに気づく。
距離をとっても、レイから放たれる怒りの空気を感じる。
「……用事を思い出した」
キヨは、突然立ち上がった。
そこに、酔っ払いの名残はなかった。
「イーライ、行くぞ」
そう言って、キヨは足早に部屋から立ち去る。
その様子を、レイは鋭い眼差しで見つめていた。
扉が閉まり、誰もが声を出さなかった。
「レイ様、お部屋に戻りましょう」
静かに声をかけたのは、サキではなく、シュリだった。
怒りのため、呼吸を荒くしているレイの背中に触れる。
呆然と立ち尽くしているサキは、我に返りレイに近づいた。
「……私」
呟くレイに、シュリが穏やかに声をかける。
「気持ちが乱れたので、疲れただけですよ」
「……そうなの?」
弱々しく、問いかけるその表情は、普段のレイに戻っていた。
「はい」
シュリは、何事もなかったように頷く。
しかし、先ほど見たレイの表情が忘れられなかった。
部屋から出る前に、レイはチラとユウを見た。
ソファで俯いたユウの表情は、金色の髪に隠れて見えない。
ーー本当は慰めたい。
寄り添いたい。
姉の手を握って、いろんなことを話したい。
けれど。
姉上は、弱みを私に見せない。表さない。
その代わりにーー優しく微笑む茶色の眼差しを感じた。
「今日は、よくお休みください」
シュリは、レイの部屋まで送ってくれた。
「……姉上は」
レイが質問をすると、シュリは、少しだけ微笑んだ。
「大丈夫です。そばで見ておりますから」
レイは、彼の眼差しから目が離せなかった。
苦しみを耐え抜いているものだった。
今夜も、彼は傷ついた姉に寄り添うのだろう。
「……シュリ、ごめんね」
思わず、言葉が唇からこぼれる。
ーー自分のせいで、姉上だけではなく、シュリもまた苦しんでいる。
突然の謝罪に、シュリはわずかに目を見開いた。
けれど、その意味を問い返すことはせず、
いつものように静かに頭を下げた。
◇
翌朝、レイはゆっくりと寝台から起き上がった。
ーー一睡もできなかった。
あんな風に、激情が包まれたのは初めてだった。
顔が妙に腫れぼったい。
気怠い体を引きずり、朝食をとりにユウの部屋に訪れた。
扉を開けると、優しい日差しが降り注ぐ中、
ユウは、いつものように挨拶をしてくれた。
レイは、じっとその表情を見つめる。
何もなかったように、朝食が始まる。
お互いに、昨夜のことを口にしなかった。
けれど、姉の目の下は影があり、自分もひどい顔をしている。
後ろでは、シュリが静かに立っていた。
レイが部屋を出たあと、静かな空気が落ちた。
ユウは、しばらく閉まった扉を見つめていた。
朝食は、ほとんど口にしていない。
「……あんな所……レイに見られたくなかった」
恥じらいと憤り、そして、屈辱。
それが、こもった声だった。
「……まだ、嫁入り前なのに」
ヨシノは、部屋の隅で食器を片付けている。
シュリは返事をしない。
昨夜の光景が、何度も脳裏に蘇る。
キヨに抱き寄せられ、苦しそうに顔を歪めていたユウ。
それを、ただ見ていることしかできなかった。
剣を握る手に、力がこもる。
ーーもし、レイ様が来なければ。
自分は、耐えられただろうか。
ユウは、そんなシュリを見て、ふっと困ったように微笑んだ。
「そんな顔をしないで」
その言葉に、シュリの表情がわずかに歪む。
「……どんな顔ですか」
低い声だった。
押し殺していた感情が、ほんの僅かに滲んでいる。
シュリは、目を伏せたまま動かなかった。
ユウは、シュリの握り締めた拳へ視線を落とした。
白くなるほど、強く握りしめられている。
ーーずっと、耐えていたのだ。
自分の代わりに。
ユウは、ゆっくりとその拳へ手を重ねた。
シュリは、息を呑む。
けれど、その手を振り払うことはできなかった。
72万文字を超えた今も、新しくブックマークしていただけることに驚きと感謝でいっぱいです。
長い物語を手に取ってくださり、本当にありがとうございます。
ここまで付き合ってくださる読者の皆さまのおかげで、毎日楽しく書き続けられています。
物語はいよいよ終盤です。
最後まで丁寧に描いていきますので、引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。
次回ーー明日の20時20分
「元気でね」
その言葉を残し、レイは前を向く。
そして城では、新たな出来事が静かに動き始めていた。




