銀の櫛と妾の現実
「レイ!」
弾む声が庭園に響く。
声をかけられたレイが、振り向くと、
西領から戻ってきたヘンリーが駆けてきた。
後ろに控えていたサキは、身構える。
ーーこんな時間に、レイ様を呼び出すなんて。
暖かい地とはいえ、夕方の外気はきりりと肌をさすようにはりつめていた。
「随分、早いお戻りね」
「あぁ、思ったより早くに終わってな」
嘘だった。
ヘンリーは、レイに会いたい一心で、早くに戻ったのだ。
必死に馬を走らせるヘンリーに、
同行していたノアは、呆れ気味だった。
帰るなり、早々にレイを庭園に呼び出したのだ。
薄暗くなった庭園で、レイの姿を見たヘンリーは、
思わず息を呑みそうになった。
まだ15で肌が桃色だ。
けれど、固い蕾のようなところがある。
「レイ……大丈夫か」
ヘンリーは、レイをじっと見つめた。
最後にレイに会ったのは、ユウが妾になった経緯を話した時だった。
あの時のレイは、泣き、叫び、取り乱していた。
ヘンリーの顔を見て、その時のことが蘇った。
あの時ーー動揺していたけれど。
あんな風に男の人に抱きしめられたのは、初めてだった。
密着した体、涙を拭ってくれた優しい手、硬い胸板ーー
耐えられない真実と、そして、恥ずかしさが入り乱れ、
レイは、目を伏せた。
見る見るうちに、頰を赤らめるレイを見て、
賢明にもヘンリーは何も言わなかった。
甘くとろけるような灯りが、胸の奥に小さくともる。
「これ……西領で見つけた」
そう言って、懐から鈍く光る何かを出した。
「……私に?」
顔を上げたレイを見て、ヘンリーは小さく頷く。
細い銀細工の櫛。
小さな黒曜石が一粒だけ埋め込まれている。
「西領で見つけた。似合うと思っただけだ」
レイは、手の中に冷たく光る櫛を見つめた。
「黒髪に銀は映えるだろ」
ヘンリーは、気楽を装うような軽い言い方をした。
「……ありがとう」
少しどもりながら、レイは答える。
ーーこういうのをもらった時は、どうすれば良いのだろう。
レイは、手に持ったまま途方に暮れた。
ふと、昔のことを思い出した。
ノルド城にいた頃ーーシュリが差し出したリボンを、ユウは「つけて」と頼んでいた気がする。
「……つけてくれる?」
レイは伺うように見上げる。
「あ……あぁ」
そう答えながら、ヘンリーは、
カッと体中を巡る血が顔の中心に集まってきたのがわかった。
ぎこちない手つきで、レイの髪に櫛をそっと差し込んだ。
冬の淡い陽を受けて、細い銀細工が静かに光る。
黒曜石の飾り石は、夜を閉じ込めたような深い色をしていた。
白い肌、黒い髪、そして凪いだ黒い瞳。
静かな色ばかりなのに、不思議と目を離せない。
遠くで、その姿を見たサキは、思わず息を呑む。
ーーまるで、夜に咲く花のようだ。
派手な装いではない。
けれど、その銀の櫛は、レイの美しさを静かに際立たせていた。
「……似合うな」
ぽつりと零れた声は、思っていたよりも低かった。
レイは、少しだけ目を見開く。
そして、居心地が悪そうに視線を逸らした。
「そう……?」
指先が、無意識に銀の櫛へ触れる。
ヘンリーは、その仕草から目を離せなかった。
ーー贈って良かった。
ただ、それだけなのに、胸の奥が妙に熱い。
「あぁ」
ヘンリーは、照れ隠しのように後ろ頭をかく。
レイは、ゆっくりと彼を見上げた。
その黒い瞳が、真正面から自分を見る。
ヘンリーの喉が、無意識に鳴った。
「……ありがとう」
レイは、小さな声で呟く。
その頬は、ほんのり赤く染まっていた。
普段は静かで、何を考えているかわからない少女が、
今だけは年相応に恥じらっている。
それが、たまらなく愛おしかった。
ヘンリーは、思わず目を細める。
その時ーー庭の奥から小さな影が現れた。
ゆっくりと歩んでいた足が、不意に止まる。
少し先、薄明かりの中で向かいあう若い男女を見つけた。
淡い夕焼けの中でも、男の顔は不自然なほど赤かった。
そして、その向かいにいる少女は、銀色の櫛を触っている。
真っ直ぐすぎる視線を感じて、
ヘンリーとレイは、振り返る。
そこには、小柄な体に不釣り合いの大人びた灰色の瞳の少年が立っている。
アーサーだった。
「失礼」
アーサーは、にっこりと微笑んだ。
その笑顔が、妙に嘘くさい。
「良い雰囲気なのに、お邪魔しました」
その言い方は、相変わらず棘がある。
「また、お前か……」
思わずヘンリーがため息をつく。
「偶然ですよ。
国王の甥となればーーこんな時間でも、姫を連れ出せるのですね」
アーサーは、レイの顔を見た後に、露骨に顔を逸らした。
「そういう訳では……」
ヘンリーの言葉尻が弱くなる。
アーサーの話していることは、一理あるからだ。
「大丈夫ですよ。この件は内密にしますから」
意味ありげに、アーサーは薄く笑った後に、レイをチラと見た。
そして、踵を返す。
「……それでは、ごゆっくり」
アーサーが去った後、気まずい空気が流れる。
「レイ様、西棟へ戻りましょう」
サキが近寄る。
それに答えず、レイは彼の背中を見つめていた。
「感じが悪い子だわ。あんな歳なのに、擦れていて、冷めた目をしている」
思わず呟く。
「仕方がないだろう。あの歳で人質だ」
ヘンリーは頭を掻く。
「お父上のジュン様は良い方なのに」
レイは、納得できない表情をする。
「ジュン様の話によると……最近、母君を亡くしたらしい」
「……」
レイは何も言えなかった。
その代わりに、サキが静かにレイを促す。
「レイ様、帰りましょう」
その声は、少し強かった。
「わかったわ」
サキの言葉に頷いたレイは、
ふと、自室に置いたままの寝具を思い出した。
西棟の長い廊下を歩いていると、サキが不安そうに声を忍ばせた。
「レイ様、早く返しましょう」
「……そうね」
シュリと初めて結ばれた日、レイは、ユウの寝具を侍女から受け取った。
それ以来、返すきっかけをつかめず、レイの部屋に置いたままだった。
「他の女中が探していると聞きました」
「すぐに返すわ」
レイは、寝具を手にユウの部屋に向かった。
いつものように、扉の小窓を開ける。
しばらくすると、扉を開けたのは、ヨシノではなくイーライだった。
少しだけ扉を開けたイーライの瞳には、困惑がはっきりと浮かんでいた。
「どうしたの?」
レイは、思わず声を顰める。
「ユウ様に面談なら、後日の方がよろしいか、と」
イーライにしては珍しく歯切れの悪い回答だ。
その時、レイは強い香りを感じて、顔を顰めた。
ーーなんの香り?
しばらくして、それがワインの香りだと気づいた。
レイは、止めるイーライの手をすり抜けた。
部屋は静まり返っていた。
甘く重いワインの香りが漂っている。
ソファの向こうに、人影が二つ重なっていた。
最初は何を見ているのかわからなかった。
やがて、白い指が苦しげに震えていることに気づく。
いつものソファで、キヨがユウを抱きしめていた。
そして、彼らの唇はくっついている。
レイは、縫い付けられるようにその場に立ち尽くした。
キヨは逃さぬように、ユウの後頭部を押さえ込んでいた。
深い口づけのようで、ユウの顔は苦痛と嫌悪に歪んでいる。
「う……」
そんな苦悶の声と、キヨの荒い鼻息、湿った音が淀んだ部屋に響いていた。
ユウの指先がキヨの腕を押し返そうとする。
けれど力は弱く、すぐに掴まれてしまう。
ーー今まで、姉が妾になったことは知っていた。
けれど、レイにとって、
改めて、それを実感してしまう生々しい光景を目にしてしまった。
萎びた年寄りが、若く美しい姉の唇を奪っている。
イーライは、身を硬くして目を伏せ、
ユウの背後では、シュリが怒りで真っ青な顔をして立ち尽くしていた。
ヨシノは、唇を噛み締めて、エプロンを握りしめたまま離さない。
例え、ユウが嫌がっていたとしても、
誰も国王に逆らえないのだ。
キヨの萎びた手が、ユウの雪のように白い胸元に忍び込んできた。
ユウは、首を振って離れようとするが、
それを逃さぬように、キヨはさらに口づけを深めた。
次の瞬間、レイの黒い瞳から火花が散った。
怒りと屈辱で、頭が焼けるように熱かった。
頭の中で何かが切れた。
姉を守れなかった悔しさ。
何もできない無力さ。
全部が一つになって、喉から噴き出した。
「離れろ」
低く、大きな声が部屋に響いた。
次回ーー明日の20時20分
「触れるな」
レイの叫びは、それぞれの胸に小さな波紋を残していた。




