そのままで良い。そのままが……良い
夕暮れの淡い光が、西棟の部屋へ静かに差し込んでいた。
昼間より火を落とした暖炉が、ぱちり、と小さく音を立てる。
窓の外では、葉を落とした枝が、冬の風にゆっくり揺れていた。
ユウは藤の椅子に腰掛けたまま、ぼんやりと窓の外を見つめていた。
少し離れた椅子では、ヨシノが黙々と針を動かしている。
シュリは、暖炉の薪を整えながら、時折、ユウへ視線を向けた。
誰も、大きな声では話さない。
静かな部屋だった。
けれど、その静けさの下には、
言葉にできない想いが、幾重にも沈んでいた。
「シュリ」
ユウが小さな声で呼んだ。
シュリは、ユウが座っている籐の椅子に近寄る。
この椅子に座っている時のユウは、妾でもなく、姉でもない。
「お呼びですか」
シュリが声をかけると、ユウは無言で隣の藤の椅子を叩いた。
座れという合図だ。
ヨシノは顔も上げずに裁縫に没頭しているフリをしている。
シュリは、少し躊躇いながら椅子に浅く腰をかけた。
隣に座っても、ユウは何も言わない。
シュリは、横目でその様子を見つめていた。
ーー美しい、なんといっても、どんな風にしても美しい。
怒った顔も、泣いた顔も、そして、こんな風に思い詰めた表情をしている時も、シュリは、いつでも美しいと思ってしまう。
でも、本当は笑った顔が一番美しいと思っている。
けれど、最近はその笑顔を見ていない。
最後に見たのは……あの夜だった。
もう、3ヶ月も前のことだ。
「レイのことが心配で……」
ユウが、ポツリと呟く。
昨日の昼下がり、レイがこの部屋に訪れ、ユウの膝に縋りついて泣いていた。
「普段、感情を出さない子でしょう。だから、心配なの」
ユウは、ため息をついて、バルコニーの先を見つめる。
なぜ、泣いているのか、理由を問いただすユウに、
レイは何も話さなかった。
「レイは、何でもないと話すけれど……
何もなければ泣くはずがないわ」
ユウは、納得できないように首を振った。
「理由を話さないのは……大人になったのではないでしょうか」
シュリが、ゆっくりと口を開く。
「レイが? あの子は、まだほんの子供よ」
ユウが驚いたように口を開く。
「レイ様は15です。ユウ様も……その頃には、他人に言えないことがあったのではないですか」
話しながら、シュリの顔は徐々に赤くなる。
ーー15歳。
その頃の自分は、ユウと口づけをしていた。
人目を忍ぶように、幾度か口づけを交わしていた。
「……あ」
ユウも思い出したように、頬が赤くなる。
「大人になると……言えないことが増えていきます」
そう言いながら、シュリは俯いた。
ーー自分も言えないことだらけだ。
ユウと過ごしたあの夜のことも。
この胸の裡も。
誰にも話せない。
「……そうね。まだ、子供だと思っていたけれど……
あの子も大人になってきたのね」
ユウは、少し寂しそうに呟き、金色の髪を耳にかけた。
長い沈黙が落ちる。
ヨシノは、糸を切るために鋏を取り上げたときに、
ユウとシュリが見つめあっていることに気づいた。
二人の声は、小さく何を話しているのかはわからない。
けれど、交わすその目線は想いが滲んでいる。
次の瞬間、ヨシノはそこから目を逸らした。
母として、
そして乳母としてーー
気づいてはいけないものに触れてしまった気がした。
ユウは、そっとシュリの手を握った。
シュリは、思わず目を見開き、
慌てて、後ろを振り返る。
ヨシノは、繕い物をしていた。
ーーこの角度では、母も気づかないはず。
そう思い、静かに白い手を握り返した。
ユウは、シュリを見つめないように前を向いていたが、
突然、ポツリと呟く。
「……今の現状を受け入れて、生きていくことができないの」
それは、レイの話ではない。
主語がない言葉。
けれど、シュリにはわかっていた。
キヨを報復することを言っていることを。
「……そうですか」
シュリが返した言葉は、それだけだった。
しばしの沈黙の後に、ユウは俯いたまま話す。
「諦めてたら、どれほど楽でしょうね。
そういう人になりたい……と思うの」
シュリは、思わず苦笑いをする。
「……そんな人、ユウ様ではありません」
シュリの言葉に、ユウは振り返る。
「挫けない、言いなりにならない、長いものに巻かれないのがユウ様です。気持ちを沈めて……生きていくのはユウ様ではないです」
シュリは、そう呟いて、ユウの手を握り返した。
「けれど……」
納得しない表情のユウを見て、シュリは微笑む。
「……そんなユウ様で良いのです。
そんなユウ様が……良いです」
言いながら、シュリは目を伏せた。
途中で気づいた。
これは、仕える言葉ではなく、愛の告白だった。
見つめるユウの視線が眩しすぎて、シュリは思わず目を伏せた。
「シュリ……私は……」
そこから、先のセリフは言えなかった。
シュリが、ユウを見つめて僅かに首を振ったからだった。
「……そのままで良いです。
他の誰かと比べなくても……私がおります」
心から流れ出てくる一筋の想いを伝えた。
ユウは、その手を強く握り返した。
「……ありがとう」
その声は、少し震えていた。
穏やかな茶色の瞳、静かな声、剣を振り続けてきた手は、硬く、大きかった。
不意に、ユウはシュリの手を口元へ引き寄せた。
不思議そうに目を瞬かせるシュリの人差し指を、
ユウはそっと唇に含む。
「……!!」
シュリの頰が赤く染まる。
ーーあの夜を、思い出してしまう。
ユウも、また、自分の中に眠っていた熱が静かに目を覚ますのを感じていた。
彼の視線は、触れていないのに肌をなぞるようで、低い声は、胸の奥を甘く震わせる。
また、あの腕に抱かれたら。
この指で触れられたのなら。
自分が抑えきれなくなってしまう。
唇は一瞬で離れた。
けれど、二人の視線は絡み合ったままだった。
そのときーーカチッと音がして、
ヨシノは、慌てて扉に向かい、シュリは、椅子から立ち上がる。
扉を開けると、イーライが困惑した顔で頭を下げた。
「キヨ様が面談に来られます」
ユウは振り返る。
夕暮れのこの時間に、キヨの訪問は珍しい。
「こんな時間に?」
思わず問いかけると、イーライは、どこか戸惑ったように早口で話す。
「止めたのですが……」
しばらくしてーー
「ユウはおるか」
酒の匂いまで伝わってくるような声が、廊下の奥から聞こえてきた。
ユウは、怪訝な顔で廊下の奥を見つめた。
しばらくするとーー
酔っておでこの上半分が赤く染まったキヨが現れた。
「ユウ、こっちに来い」
次回ーー明日の20時20分
「離れろ」
部屋に響いた少女の怒声。
張り詰めた空気の中、誰も動けない。
そして、一人の青年が静かに拳を握り締めていた。




