それならーーなぜ、逃れた
穏やかな午後だった。
レイは、本館の庭でため息をついた。
寒さが本格的になった今、冬の庭には見るべき花は何もない。
淡い陽が落ち、黒ずんだ枝先だけが静かに揺れていた。
ーーだから、良い。
ここなら、誰にも会わない。
ユウが妾になった真相を知ってから、レイの心の中は、荒れ狂う海のようになっていた。
不安定なレイを、サキは黙って背中を撫でてくれた。
この苦しさを、姉本人に語るわけにはいかない。
唯一、愚痴れるヘンリーは、ノアと共に、
西領へ行ってしまった。
当分、戻ってこない。
だからこそサキは、こうしてレイが一人で冬の庭へ行くことを許してくれた。
薄青い空を眺めて、レイは白い息を吐いた。
お気に入りの東屋があるベンチへ向かうとーー足が止まった。
先客がいたのだ。
レイに、苦痛をもたらした真実を告げた少年、アーサーがベンチに座っていた。
成人の証として与えられたばかりの剣を隣に置き、冬枯れの庭を眺めている。
小柄な背中は年齢より幼く見えるのに、灰色の瞳だけが、不釣り合いなほど冷めていた。
足を止めたレイに、彼も気付いたようだ。
お互い無言で、見つめ合う。
次の瞬間、アーサーは露骨に顔を背けた。
彼の隣には、真新しい立派な剣が置いてある。
ーーそうか。
彼は成人をしたのだ。
『……あの子も、もう自由には生きられない』
ヘンリーがつぶやいた言葉を思い出す。
なので、レイは、顔を背けたアーサーに告げた。
「成人、おめでとうございます」
それは礼儀上の言葉だった。
ーーこの子と深く接するつもりはない。
小さく頭を下げて、その場を去ろうとした。
「めでたくもない」
その声は、甲高く冷ややかなものだった。
レイが振り返ると、アーサは相変わらず顔を背けたまま言った。
「僕を成人させることで、『アオイ家の未来もトミ家の支配下にある」と示したようなものだ」
その言葉に、レイは、何と言っていいのかわからなくなった。
この少年は、見た目は幼い。
けれど、あまりにも聡い。
子供らしい無邪気なものが何もなかった。
「……そうかもしれません」
レイの落ち着いた返事に、アーサーは少しだけ顔の角度を緩めた。
レイは、そのまま立ち去りたかった。
「……名前は?」
アーサーは、レイの顔を見た。
「名前?」
「僕は名乗った。でも、あなたの名前は知らない」
レイは目を伏せたが、このまま名前を告げないのは、変だと気付いた。
仕方なく、口を開いた。
「……レイ・センよ」
その言葉に、アーサーは目を丸くした。
「セン?じゃぁ……あなたは……」
「そうね、予定通り嫁げば、あなたは私の義理の息子になるわ」
レイは、冷笑を含ませてつぶやいた。
アーサーは、レイをじっと見た。
黒い髪に、黒い瞳、何を考えているかわからない整った顔立ち、
そして、華奢で小柄な少女。
確かに若い。
母というより、年が離れた姉というような佇まいだった。
「ははっ……」
アーサーは軽く笑う。
「何がおかしいの?」
レイの黒い瞳が、静かに揺れる。
その瞳を見つめると、アーサーは奇妙な苛立ちを覚えた。
「さすが、ゼンシ様の姪だ。
年寄りの父上と嫁ぎたくないから、婚姻を回避できたんだね」
アーサーは、笑顔で話している割には、棘がある言葉を投げつけた。
レイは、一歩近づいた。
その黒い瞳は、静かな怒りの炎が揺れている。
「私は知らなかったの。ジュン様に嫁ぐことを」
アーサーは、レイの黒い瞳を見据えて呟く。
「それならーーなぜ、逃れた」
「私が嫁ぐ代わりに……姉上が国王に交渉したのよ」
レイの声は震えていた。
胸の奥に、憤りが募り爆発寸前だった。
ーー私のせいで、姉上は苦しんでいる。
「姉上が妾になることで……私は、ここにいるの」
レイの声は、掠れていた。
「え……」
アーサーの顔色が変わった。
「姉上にそんな思いをさせるのなら、私だって嫁ぎたかったわ!
喜んで嫁ぐつもりだったのに!」
絶叫が庭にこだました。
顔を上げたレイの黒い瞳は、涙で溢れていた。
アーサーは、言葉を失った。
ーー違うのか。
この娘は、逃げたかったわけではない。
初めて見るレイの激情に、胸の奥が妙にざわつく。
何かを言おうと口を開きかけた、その時だった。
レイは踵を返し、雪のない冬の庭を駆け出した。
◇ 同じ頃ーー西棟 ユウの部屋
泣き声も届かぬ西棟では、静かな午後が流れていた。
茶器が触れ合う静かな音が部屋に響く。
静かな午後だった。
「どうぞ」
イーライが差し出したカップを、ユウは静かに受け取る。
昨夜、彼の前で肌を見せ、触れられた。
毎回のことだけど、慣れることはない。
それを思い出すだけで、ユウは恥ずかしくなる。
けれど、淡々と茶の支度をするイーライは、
昨夜のことなど、何もなかったような振る舞いだった。
「……ありがとう」
ユウは、恥ずかしさを隠すように目を伏せた。
急に寒くなったので、ヨシノが暖炉を確認すると、
薪がわずかしかなかった。
「シュリ、薪を追加してくれる?」
ヨシノのお願いに、シュリは頷いた。
イーライが部屋にいる時に、ユウのそばから離れたくなかった。
けれどーー母がいるから大丈夫だ。
「運んできます」
そう言って、部屋を出ていく。
しばらくすると、扉の小窓がカチッとなった。
侍女だった。
「ヨシノ、ユウ様の寝具が一着足りないの」
「なぜ?」
ヨシノが顔を上げる。
ユウの寝具は高価なものだった。
「わからないの。一緒に確認してもらえる?」
「ええ。でも……」
ヨシノは、チラッと振り返る。
「ヨシノ、大丈夫よ。シュリがそのうち帰ってくるわ」
ユウが頷くので、ヨシノは頭を下げた。
「それでは、失礼します」
こうして、部屋には、イーライとユウだけになった。
静かな沈黙が部屋に落ちた。
イーライの表情は、普段と変わらぬものだった。
けれど、ポットの蓋を開け、何度も中身を見ることを繰り返していた。
「イーライ、こちらへ」
ユウが隣のソファに座るように指示をした。
イーライは、目を伏せ、静かに座る。
「……前から伝えたいと思っていたわ」
ユウは、イーライを見つめて、呟く。
「……何でしょうか」
イーライは、自分の靴先を見つめていた。
「その……夜の確認のことよ」
ユウの声は、だんだんと小さくなる。
その声のか細さに、イーライは顔を上げた。
「私はよくわからないけれど……」
ユウは、軽く咳払いをした後に、言葉を続けた。
「男の人は……裸の女性と二人きりになると、揺れるらしいわね」
その言葉に、イーライは思わず拳を握った。
ーー気付いているのか。
必死に隠している、この欲を。
彼女に触れたいと思って、胸を焦がしていることを。
凍りついたように動かないイーライに、ユウは告げた。
「……それなのに、あなたは、きちんと任務を遂行している。
あなたが、きちんとしてくれるから、私は耐えられているの」
ーー違う。
忠臣ではない。
醜い欲にまみれた男だ。
イーライは、真っ直ぐにユウを見つめた。
端正な顔立ちが、切なげに歪む。
それは、一瞬だけ見せた弱さだった。
ーー否定しなくてはならない。
イーライの喉が震えた。
言ってはいけない。
けれど、もう限界だった。
「ユウ様、それはーー」
その時だった。
扉の外で、人の気配がした。
ーーシュリ?
イーライが視線を走らせた瞬間、バンッと強く扉が開く。
振り返ると、レイが扉の前で立ち尽くしている。
「レイ、どうしたーー」
その言葉が、言い終わらないうちにレイは、すごい勢いで駆けて、
ユウにしがみついた。
「姉上!!」
「レイ、どうしたの?」
姉の膝に縋りつき、レイは顔を上げずに泣き出した。
「……レイ?」
「何でもない」
そう言って首を振るが、レイの手は、しっかりとユウの腰に絡みついていた。
薪を抱えたシュリが、部屋に戻ると、
レイが、ユウに縋り付いて、声を出して泣いていた。
戸惑うユウと、その隣に座っていたイーライの瞳が揺れていた。
何があったのか。
誰も、まだ知らない。
けれどレイだけが、もう戻れない場所へ足を踏み入れてしまったことを知っていた。
次回ーー明日の20時20分
酔った国王の突然の訪問。
静かな夕暮れは、思いもよらぬ方向へ動き始める。




