知らなかった代償
「いつから……ここに」
ヘンリーが口にすると、少年はニッコリと微笑んだ。
笑っているのに、何か含みがある。
その笑顔を見て、レイは、彼が無邪気な少年ではないことを知った。
「随分、前からですよ。なので……見ていました」
そう言って、少年は思わせぶりな眼差しで、ヘンリーを見上げる。
見透かすようなその眼差しに、ヘンリーは思わず開いた拳を握る。
レイが来るまで、待ちきれなくて、
図書室の中をソワソワと歩いていたことを、この少年は知っているのだ。
「あなたは、誰?」
レイは、じっと少年を見つめる。
本館の奥にあるこの部屋にいること自体、特別な存在だとわかる。
少年は、レイの凪いだ黒い瞳を見て、不意に顔を背ける。
「別に……名乗らなくても、あなたには関係のない者です」
「無礼な奴だな」
ヘンリーは、思わず声を荒げる。
「名乗るような者ではないです」
少年はチラッとヘンリーを見て、その後、レイに視線を動かす。
「なんだ」
思わせぶりな眼差しに、ヘンリーが一歩距離を詰める。
「身分ある人たちが、こんな所で密会ですか」
少年は、楽しそうにクスクスと笑う。
ーー聡い子だわ。
レイは、整った顔で笑う少年を見て思った。
彼も、また、ここの部屋にいる二人は特別な身分のものだと把握している。
彼が座るテーブルの上には、様々な本が開いており、それを羊皮紙に書き付けている。
退屈しのぎで、ここにいたとは思えない。
隣にいたヘンリーは、後ろめたい思いと苛立ちで、
一瞬、体が膨れ上がったような気がした。
「名をーー!!」
声を張り上げた、その時ーー
「アーサー様、ここにおられたのですね」
慌てたような声が、図書室に響く。
振り返ると、中年の男が焦ったようにこちらに向かっている。
手には、豪華なマントを持っている。
「マサ、部屋にいても退屈だったんだ」
少年は、平然と答える。
「探しましたぞ」
マサと呼ばれた男は、額の汗を拭う。
「……お前は」
ヘンリーは、中年の男の顔を見て言葉をなくす。
「これは、これは……ヘンリー様……このような場所で」
男は、足を止めて、直角に頭を下げる…
「……どなた?」
レイは小声で質問をすると、ヘンリーが引き受けた。
「西領のジュン様に仕える重臣だ」
ーージュン様の重臣。
それならば、彼が仕えるこの少年は。
レイは、じっと少年の顔を見る。
その眼差しに観念したように、少年は肩をすくめて、
ようやく名乗った。
「アーサー・アオイだ」
その言葉に、レイは目を見開く。
「ジュン様の後継の……」
レイの言葉を引き継ぐ。
「そうだよ。今はトミ家の人質だ」
その言葉に、レイは目を見開く。
ーー人質?こんな幼い少年が?
「ヘンリー・トミだ」
ヘンリーは、少しだけ声を落とす。
人質は囚人ではない。
両家を繋ぐ、最も重い約束だった。
あのジュン様の後継、それだけで、この少年の立場は特別だ。
「トミ家……」
アーサーという少年は、意味ありげにヘンリーの顔を見る。
「そうだ。王の甥だ」
「昨年、嫁いできた僕の義母上は、トミ家の方だ」
アーサーは少し冷めた目で、ヘンリーを見返す。
「あぁ。そうだ」
ヘンリーは、目を少し伏せた。
本来であれば、ジュンには、レイが嫁ぐ予定だった。
けれど、ユウが、キヨに交渉をした。
自分が妾になるから、レイを嫁がすな、と。
その代わりに、キヨは自分の妹をジュンの元に嫁がせたのだ。
「びっくりしたんだ。父上には、セン家の娘が嫁いでくると聞いていたから」
アーサーは、静かに笑った。
レイの肩が、ぴくりと揺れる。
「それなのに、急に歳をとった今の義母が嫁いできたんだ」
氷のような嘲笑が口元を掠める。
「……え」
レイは顔を上げる。
ーーセン家の娘?
それって……
「黙れ!」
ヘンリーが、思わず怒鳴る。
アーサーは、ヘンリーの焦った表情を見て、面白そうに続けた。
「あのゼンシ様の姪であるセン家の娘が、嫁ぐと聞いて
城中が湧き立っていたよ。
父上は、幼いけれど、いずれ子を産んでもらい、アオイ家も安泰だと。
それなのに、子が産めない歳とった女が嫁いできた」
その言葉に、レイは闇に落とされたかのような気持ちになった。
ーー今、なんて。
「幼いセン家の娘……」
レイは呆然と呟いた。
ユウは妾。
ウイは既婚。
二人とも年頃の娘だ。
そして、自分はようやく結婚適齢期だ。
胸の奥が冷えていく。
「……私?」
「黙れと言っているだろう」
ヘンリーは思わず距離を詰めようとした、その瞬間ーー
「アーサー様、儀式の支度をしましょう」
マサが割って入った。
「あぁ」
アーサーは、立ち上がった。
憤るヘンリーの顔を不思議そうに見つめ、
その後ろに控えていたレイに視線を流す。
青ざめたレイの表情に、一瞬、怪訝な顔をして、
アーサーはその場を離れた。
図書室に残されたのは、レイ、ヘンリー、そして、サキだった。
サキも、一連の話を聞いて、呆然と立ち尽くしていた。
「ヘンリー、どういうこと?」
口を開いたのは、レイだった。
ヘンリーは俯いたまま、顔を上げない。
「幼いセン家の娘って……私のことでしょ」
レイの声は、静かだった。
ヘンリーは、何も言えずに唇を噛み締めた。
ーー言えない。
レイのために、ユウが身を投げ出したことを伝えたら、きっとレイは壊れてしまう。
「ヘンリー」
強い声に、ヘンリーは顔を上げた。
目の前にいる小柄な少女は、震えていた。
けれど、その黒い瞳には強い意志が宿っていた。
負けない、曲げない、揺るがない瞳。
「ヘンリー、教えて」
その眼差しと声に逆らえず、ヘンリーは息を吐いた。
次回ーー明日の20時20分
知らなければ幸せだったのかもしれない。
けれどレイは、姉の秘密を知ってしまった。




