秘密を抱えた朝
シュリは、ヨシノの様子を見てから、
稽古場である馬場に足を運んだ。
夜明け前の冷たい秋の風が頰を刺す。
木剣を握ったが、昨夜のユウの様子が頭から離れない。
初めて聞く声だった。
初めて見る瞳だった。
のけぞるユウを抱きしめて、名前を呼んだ時、
泣いているようにも見えるのに、拒む色がなかった。
安心して身を委ねているような表情だった。
あんな夜が、本当に存在するなんて知らなかった。
幸福な記憶が、胸の奥を満たしていく。
朝の馬場で、
リチャードは木剣を肩へ担ぎながら、シュリを見た。
そして、小さく眉を寄せる。
「……お前」
「はい?」
いつものように返事をするシュリだったが、どこか様子が違う。
いや、顔立ちは変わっていない。
けれど、空気が違った。
張り詰めていたものが、
少しだけ解けている。
それなのに、
逆に男っぽさが増して見えた。
「……なんかあったか?」
その問いに、
シュリは一瞬目を見開き、すぐに視線を逸らした。
「特に何も……」
リチャードの勘は、妙に鋭い。
見透かされそうになって、シュリは、背中を向け、
木剣を振る速度が露骨に速くなった。
リチャードは、シュリの背中を見つめた。
朝日が昇り、シュリの背中にキラッと光るものが見えた。
思わず手を伸ばして、それをつまむ。
見事な長い金髪が数本、シュリの背中に絡みついていた。
「お前の髪は、随分と長くなったな」
振り向くと、リチャードがニヤニヤしながらそれを指先で摘んでいる。
シュリは目を見開き、いつもより甲高い声を上げた。
「こ……これは偶然!!」
その反応だけで、リチャードは察する。
「……あぁ」
思わず、乾いた笑みが漏れた。
長年、あれだけ苦しそうにしていた男だ。
その顔を見れば、何があったかくらいわかる。
「……良かったな」
小さく呟く。
シュリは、何も答えなかった。
けれど、耳だけが赤かった。
◇
サカイ城 西棟の廊下
レイとサキは、顔を見合わせてユウの扉の前に立つ。
もう陽は上がっている。
昨夜のことを思い出し、
胸の奥がそわそわと落ち着かない。
ーーシュリは、まだ部屋にいるのだろうか。
「……行くわ」
つぶやいたレイに、サキが小さく頷いた。
レイは、いつものようにユウの部屋の扉を開けた。
いつものソファに、ユウは座っていた。
「おはよう、レイ」
その声は、聞いたことがないほど柔らかい。
ユウの姿を見た瞬間、レイは目を見開いた。
ユウの顔色が、まるで違ったのだ。
もちろん、少し疲れている。
けれど――
今までの朝みたいな、押し潰されそうな暗さがない。
青い瞳には、淡い熱が残っていた。
頬も、ほんのり赤い。
何より、その表情は柔らかかった。
「……姉上?」
思わず呟く。
「ドレスは一人で着れたけれど、髪が難しいの。
サキ、結ってもらえる?」
柔らかく微笑むユウに、サキは櫛を手に頷く。
ユウの表情と仕草だけで、
レイには全部わかってしまった。
――良かったんだ。
昨夜、姉上は幸せだったのだ。
その事実に、レイの胸が熱くなる。
泣きそうになるのを堪えながら、
レイは笑った。
「……おはようございます、姉上」
二人の朝食が始まる。
いつもの朝、いつもの朝食、その時ーー
「おはようございます」
稽古を終えたシュリが頭を下げて入ってきた。
その瞬間、ユウのフォークが止まった。
ゆっくりと顔を上げて、シュリの顔を見る。
ユウの頰が、見る見る赤くなる。
昨夜のシュリはーー
息が止まるほど、ギュッと抱きしめてくれた。
最中の彼の瞳は涙が滲んで、焦点が定まっていなかった。
苦しそうに息を零しながら、それでも自分の名前を縋るように呼んでくれた。
その顔には、抑えきれない熱が滲んでいた。
多くの女性を抱いているキヨとは違う、ユウだけを見つめる眼差し。
その一途な想いと熱を、受け止めるのに必死だった。
二人の視線が交わり、そっと逸らされた。
言葉にならない空気感に、レイとサキは思わず背筋を伸ばした。
「シュリ、ヨシノの調子は?」
咳払いをした後に、サキが質問をする。
「もう、良いそうです。早く任務に戻りたいようですが、
午前中の医師の診断が終わってからの復帰になります」
「そう……良かった」
ユウの声は、安堵と寂しさが混じる。
昨夜は奇跡のようなタイミングで、シュリと結ばれた。
それは、幸せなことであり、そして、不幸の始まりでもあった。
一度だけではなく、何度もあの夜を重ねたい。
もう一度、体が溶けるような多幸感に満たされたい。
そんな欲が出てしまう。
ユウは、ぐっと胸につかえるのを抑えるように、小さなため息をついた。
◇
昼過ぎに、イーライがユウの部屋にむかった。
ミヤビから戻った彼には、仕事が山のようにある。
けれど、それよりも、あのお方の顔を見たかった。
扉が開き、
ユウが姿を見せた瞬間――
イーライは、わずかに目を見開いた。
「……失礼します」
たった一日しか会ってないのに。
その時のユウとは、別人のような表情と佇まいに息を呑んだ。
目には見えぬ、美しい輝きが彼女の周囲を纏っているように見える。
「……イーライ、どうしたの?」
ユウに問われ、イーライは我に返る。
「いえ」
そう答えながらも、胸の奥がざわついていた。
理由のわからない焦燥感だった。
いつものように、濃い薬湯をカップに注ぐ。
子が授かりやすくなる薬湯。
差し出した瞬間、ユウは素早く受け取り一気に飲み干した。
イーライは、薬湯の空になった器を見つめた。
いつものユウなら、眉を寄せながら、嫌そうに飲み干す。
けれど今日は違った。
まるで、何かを期待するように、迷いなく飲み切った。
慌てて水を差し出そうとするイーライに、再びユウの声が落ちる。
「イーライ、もう一杯飲みたいわ」
その声に、ゆっくり顔を上げる。
「この薬湯は、効き目が強いので、一日1杯と決められております」
その言葉に、ユウは目を伏せた。
「……そう」
「水を」
イーライが差し出した水を、ユウは飲み干した。
「……ユウ様」
思わず名前を呼ぶ。
ユウは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞬間、イーライの胸がざわつく。
頬が淡く紅潮している。
青い瞳も、どこか熱を帯びて潤んでいた。
――満たされた女の顔だった。
「どうかした?」
ユウは、不思議そうに首を傾げる。
その仕草すら、以前より柔らかい。
イーライは、言葉を失った。
ーー違う。
何かが違う。
昨夜、キヨ様は西棟へ来ていない。
ならば、なぜユウ様は、こんな顔をしているのだろう。
ふと、背後に立つシュリが視界へ入った。
シュリは、蒼白な顔で立ち尽くしている。
その目だけが、異様なほどユウを追っていた。
イーライの胸に、言葉にならない不安が落ちる。
ーー変だ。
違和感が強くなる。
美しい唇を開いて、ユウが少し身を乗り出す。
「イーライ、ミヤビの出来事を教えて」
次回ーー明日の20時20分
幸福な夜の後に訪れたのは、甘い余韻ではなかった。
二人の前に、あまりにも重い現実が立ちはだかる――。




