終わったはずの感情が、また動き出す
◇ サカイ城 図書室
図書室の窓辺に、ヘンリーは座っていた。
室内は蒸し暑くなってきたので、わずかに窓を開ける。
やわらかな風が、頬を撫でた。
「もう、来ていたの?」
静かな声に、勢いよく振り返る。
目の前にはレイが立っていた。
まだ少女のはずなのに、その立ち姿には、目を逸らしたくなるような静かな気配があった。
その黒い瞳は、凪いだ湖のように揺らぎがない。
「レイ、いつの間に」
ヘンリーはわずかに微笑む。
気配すら感じなかった。
レイは何も言わず、隣の椅子に腰を下ろした。
「いよいよ、ジュン様が来られるわね」
「あぁ。それに向けて、明日には国中の客が集まる」
ヘンリーは、シャツのボタンを一つ外した。
「今回はダンスはあるの?」
「ないよ。……踊るのか?」
思わず目を見開くと、レイは静かに首を振る。
「まだ十四よ。踊れない」
わずかに唇を尖らせる。
「……そうだな」
そう答えながらも、ヘンリーは胸を撫で下ろしていた。
ーー社交の場に出れば、彼女は必ず目を引く。
理由は説明できない。
ただ――それが、どうしても嫌だった。
「俺は、ジュン様の家臣の宿と食事の手配に追われているよ」
ため息まじりに言うと、ふいに、レイが身を乗り出した。
「ジュン様の家臣が来られるの?」
距離が、一気に縮まる。
「あ……あぁ」
ーー近い。
「家臣たちは、本館に滞在するの?」
黒い瞳の奥が、かすかに揺れた。
「いや。本館ではない。城下の館だ。
ただし、ジュン様と、その妻である叔母上……それに子は本館に入る」
答えながら、ヘンリーはわずかに首を傾げる。
ーーなぜ、そこまで気にする?
「家臣たちは、式典に参加するの?」
レイは、さらに問いを重ねる。
その声は静かだったが、どこか急いていた。
「……するだろうな。ここまで引き連れてくるんだ」
その言葉に、レイはふっと息をついた。
ほっとしたように、胸元に手を当てる。
その仕草に、ヘンリーの眉がわずかに動いた。
ーー今のは、何だ。
見たことのない彼女の表情に、言葉を失う。
思わず、声が低くなる。
「……レイ、何を考えている」
レイは一瞬だけ目を伏せ、すぐに首を振る。
「何でもないわ」
だが――その瞳は、もう凪いではいなかった。
わずかに揺れ、どこか遠くを見ている。
レイは、そっと目を伏せた。
――そんなはずはない。
もう、終わったことだ。
そう思うのに。
消したはずの記憶が、ゆっくりと浮かび上がる。
――来るはずがない。
それでも、ほんのわずかに、期待している自分がいた。
その頃――
◇ 控えの間
「完成したか」
イーライの声に、商人ソウは静かに包みを差し出した。
包みを開くと――血のように深い赤のドレスが現れる。
縫い付けられたビーズが陽の光を浴びて、きらめく。
「ビーズは、すべて指定した場所に配置しました」
イーライはそれを広げ、ゆっくりと目を細めた。
「……いいな」
「この色は、着る方を選びます。しかし、ユウ様ならきっと」
ソウは深く頭を下げる。
イーライの指が、滑らかな布地をなぞる。
やがて――胸元で止まった。
「……ここを少しだけ、広げてほしい」
低く告げる。
ソウが顔を上げる。
「……どの程度でしょうか」
イーライは無言のまま、指で幅を示した。
ごく、わずか。
だが、迷いはない。
「……以前と同じ寸では、合わない」
その一言に、ソウの目が細められる。
イーライは視線を逸らさず、続けた。
「昔から、目測は得意だ」
淡々とした声だった。
だが――その指先は、正確すぎた。
まるで、実際に測ったかのように。
ソウは一瞬、言葉を失う。
そして、ゆっくりと頭を下げた。
「……承知しました」
イーライは、わずかに息を吐き、ドレスから手を離す。
そのまま、視線を逸らすように、傍らの布へと手を伸ばした。
淡い黄色の生地が目に入った。
ふと――アリスの穏やかな笑みが、脳裏をよぎる。
何も問わず、隣にいる妻。
「……この生地で、ドレスはあるか」
ぽつりと落ちた言葉に、ソウが顔を上げた。
「仕立てる場合、二ヶ月ほどお時間をいただきます」
「いや……既製で構わない」
顔を上げたソウに、イーライは話す。
「ユウ様ではない。私の妻だ」
「体型は?」
「……普通だと、思う」
ソウは、記録をとるため紙を広げる。
「サイズはご存知ですか」
「……」
イーライの視線が、わずかに揺れた。
答えない。
答えられない。
体を合わせた妻なのに。
だが――何も思い出せない。
その代わりに、
先ほど指で示した感触だけが、やけに鮮明に残っている。
――なぜだ。
考えるまでもない。
イーライは、目を伏せた。
――分かっている。
だが、認めるわけにはいかない。
ソウは静かに息をついた。
「……縫い子を館へ向かわせましょう。採寸して、合わせます」
責めるでもなく、ただ事実を受け止める声だった。
イーライは目を伏せたまま、頷く。
「……頼む。費用は私が持つ」
「承知いたしました」
ソウが去ったあと、控えの間には、わずかな布の擦れる音だけが残った。
イーライは、広げられた赤いドレスを一度だけ見下ろし、静かに布を畳む。
――こうして、式典の準備は整った。
二日後、サカイ城の門前では――
砂を踏む重い足音が、途切れることなく続いていた。
先頭に立つのは、ひときわ大きな影。
その後ろに、整然と並ぶ兵と従者。
門が、ゆっくりと開く。
「ワスト領 グレイ城主 リオウ様、ご到着」
声が、城内へと響いた。
続いて――
「奥方様も、ご一緒にございます」
ウイは、半年ぶりに城を見上げた。
「……変わらないわ」
小さく、呟く。
風が、吹き抜けた。
ウイは、一度だけ目を閉じる。
――姉上。
その名を胸の奥で呼びながら、城門の内へと足を踏み入れた。
次回ーー明日の20時20分
「来ないで」と言ったのに。
――それでも、抱きしめてほしかった。




