抗えない
夜明け前の、まだ光の差さない部屋で、イーライは目を覚ました。
隣では、アリスが穏やかな寝息を立てている。
その音を聞きながら、イーライは目を閉じた。
浮かぶのは――ユウの姿だった。
衣を脱いだ、白い肌。
触れた瞬間、わずかに震えた肩。
触れてはならないものに、触れてしまった感触が、まだ指先に残っている。
あれは職務だ。
ーーそうでなければ、困る。
それでも――
触れた瞬間に芽生えたものが、離れない。
見られる。触れられる。
ーーだが、決して手に入らない。
指先だけが、取り残される。
あの体が、主の手にあると思うだけで――吐き気がした。
胸の奥で、何かが静かに歪む。
昨夜は、熱を抑える事ができずーーアリスを抱いた。
温もりを求めたはずなのに、満たされるほどに、別のものが浮かび上がる。
――違う。
その一言が、何度も胸の奥で響いた。
甘美で、逃げ場のない地獄だった。
自分は何をしているのか。
守るべきものを、守れているのか。
それとも――壊しているのか。
ふと、肩に柔らかな感触が触れる。
「おはようございます」
アリスの声だった。
その温もりに、イーライは一瞬だけ目を伏せる。
そして――
「……ああ」
短く答えた声は、自分でも分かるほど、こわばっていた。
「登城はお早いのですか」
その一言に、イーライの呼吸がわずかに止まった。
アリスの声は、いつもと変わらない。
穏やかで、やわらかい。
だが――
見透かされたような錯覚が、胸をかすめる。
視線を向けると、アリスはただ静かにこちらを見ていた。
――知られているはずがない。
そう思い直し、イーライは視線を外す。
「ああ。ジュン様臣下の場に向けて、準備を進めている」
淡々と答え、寝台から身を起こした。
館を出て、城へ向かう。
朝の空気は冷たく、頭を冷やすにはちょうどよかった。
ふと、今朝の光景がよぎる。
隣で眠っていたアリス。
乱れている自分を、優しく受け止めてくれる妻。
そしてーー何も問わず、ただ隣にいる。
足が、わずかに止まる。
ーーアリスを、大切にしなければならない。
そう思っていた。
静かに息を吐き、再び歩き出す。
「おはようございます」
登城したイーライは、西棟の寝室に足を運び、長椅子に横たわるユウに声をかけた。
長い睫毛がわずかに揺れ、ゆっくりと瞼が開く。
その一瞬を、イーライは息を潜めて見つめる。
寝起きの、まだ何もまとっていない表情。
思考が、音もなく崩れた。
「……っ」
奥歯を噛みしめる。
ーーまただ。
アリスの名を思い浮かべても、
それを押し返すことは、できなかった。
胸の奥で、愛しさと欲望が焦がれる。
誰にも見せないその顔を、ただ静かに目に焼き付け、
――すぐに、視線を落とす。
薄く目を開けたユウの元にしゃがみ、耳元で囁く。
「キヨ様をお起こしいたします。ご支度を」
いつも通りの声音で告げ、主のもとへ歩み寄った。
◇
自室へ戻ったユウは、ほとんど足音を立てずに中へ入った。
「おはようございます」
待っていたシュリが、穏やかに微笑む。
その瞳は澄んでいたが、奥に何かを押し込めている。
その笑顔を見た瞬間――
張り詰めていたものが、切れた。
「……シュリ」
声が、うまく出ない。
そのまま、崩れるように床にしゃがみそうになった。
シュリは何も言わず、その体を受け止めた。
強く、抱きとめる。
「ああ……っ」
ユウの喉の奥から、押し殺していた声が漏れる。
昨夜の記憶が、背を這い上がる。
触れられた感触。
逃げ場のない時間。
ユウの体が、小刻みに震えた。
「ユウ様、落ち着いて」
シュリの声は、静かだった。
だが、その腕に込められた力は――強かった。
――その頃。
執務室では、イーライが家臣を前に立っていた。
「ジュン様の臣下の場は、単なる儀ではない」
静かな声が、部屋に落ちる。
「キヨ様が国王として地位を確立した証だ。それを――誰の目にも明らかにする」
皆が静かに頷く。
「随伴は五十。家臣たちの寝所と食事は、城下の新館へ」
短く指示を飛ばす。
「妻であるミノ様と……跡取りのご子息は、本館か?」
ノアの問いに、イーライはすぐには答えなかった。
見取り図に視線を落としたまま、指先で一室をなぞる。
ほんのわずかな間のあと――
「……本館に」
短く答え、印をつける。
「警備は厚めに。動線は分ける」
声はいつも通り、淀みがない。
一つひとつ、確認する。
迷いはない。
揺れもない。
――何もなかったかのように。
その時、扉を叩く音が響いた。
「イーライ様、控え室にソウ様がお待ちです」
その声に、イーライはわずかに顔を上げた。
――もう、か。
一瞬だけ、視線が見取り図の上で止まる。
「……承知した」
短く答え、書面を閉じようとするのを、サムが抑えた。
「わたしが引き継ぐ」
穏やかな声で、サムが口を開いた。
「……お願いします」
短く答え、イーライは執務室を出る。
廊下に出たところで、足音が一つ、後ろに続いた。
「イーライ」
呼び止められ、足を止める。
振り返る前に――肩にサムの手が置かれた。
「一人で抱え込んでいないか」
低い声だった。
イーライはゆっくりと振り向き、サムの灰色の瞳を見る。
その目は、静かに見透かしていた。
ほんの一瞬。
言葉が、喉まで上がる。
だが――
「大丈夫です」
押し込むように答えた。
間が落ちる。
サムはその顔を見つめたまま、わずかに息を吐く。
「……そうか」
それ以上は、何も言わなかった。
手が、肩から離れる。
「無理はするな」
背を向けたまま、サムはそれだけ残した。
「……はい」
イーライは、振り返らずに答える。
ーー誰にも言わない。
そう決めた。
まだ、ぬくもりが指先に残っている。
ーーもう、抗うことはできないと、分かっていた。
次回ーー明日の20時20分
静かなはずの再会が、波紋を広げていく。
揺れる過去、歪み始めた想い。
そして――客人は、すべてを連れてやってくる。




