屈しない娘と、決められた未来
イーライを先頭に、ユウ、ウイ、レイはキヨの待つ部屋へと進む。
その後ろをウイとレイの乳母、最後尾にヨシノとシュリが並んでいた。
ヨシノは、ユウの必要以上に伸びた背筋を見つめる。
精一杯、背伸びをしているその姿。
――この様子では、夕方には感情が乱れるだろう。
「シュリ・・・」
小さな声でつぶやく。
「おそらく・・・夕方には・・・ユウ様は・・・」
隣を歩くシュリは、小さく頷いた。
「わかっている、母さん」
癇癪が起きるとき、いつでも自分が対応する――その覚悟が言葉に含まれていた。
「ええ・・・」
ヨシノは短く返し、喉をゴクリと鳴らす。
「シュリ・・・わかっているわね。乳母子として・・・」
そこから先は言えなかった。
娘のように大切に育てた姫、そして息子。
二人の間に芽生えた特別な感情を、ヨシノは気づいていた。
けれど――どんなに想い合っても、二人は結ばれない。
姫と乳母子。あまりに遠い身分。
ユウ様はいずれ領主のもとに嫁ぐ身。
想いを伝えることも、一線を越えることも、決して許されはしない。
硬い表情のまま歩く母を、シュリは横目で見た。
「・・・わかっています」
静かに口を開く。
――言われなくても、わかっている。
シュリはただ、無言で足を運んだ。
◇
謁見の間の空気は、薄い緊張――と、下卑た笑いで満ちていた。
キヨが椅子にふんぞり返る。
ミミはその横で静かに座す。
控えめに並ぶエル、サム。
イーライが恭しく一礼する。
「セン家の姫様方をお連れしました」
三人は連れ立って前に進む。
観客席のような視線が一斉に向けられる中、キヨは満面の笑みで手を広げた。
「おお、来たか。待ち侘びておったぞ!」
ユウは俯いたまま、ほんの少しだけ視線を上げる。
椅子の上の男を見て、胸の中で何かが冷たく沈む。
靴底のきしむ音が遠ざかるように、世界が一拍遅れて反応する。
痩せた身体。
皺の刻んだ貧相な顔。
頭は薄く、濁った茶色の目だけが不釣り合いに大きく光る。
その目つきは怯えでも畏れでもなく、粘着質な所有欲に満ちている。
ーー父上も母上も、こんな男に敗れたのか。
記憶の中、父は立派な体格をしていたのに。
どうして、この薄汚い小男が奪い去ったのか――理解はできなかった。
理解すれば、憎しみがただ深まるだけだ。
ウイが震える声で名を告げると、キヨは無邪気な調子で呼び捨てる。
ユウの胸に黒い波が立ち上がる。
両親以外の者に名前を奪われる屈辱が、肉を抉るように痛む。
レイは黙ってキヨを見据える。
――その視線は、キヨに過去の影を見せた。
顔がわずかに強張る。
レイの顔に宿る、グユウの面影。
かつて自分が踏みつけたはずの男の面影。
妹たちは形通りの挨拶をした。
いつまでも、顔を上げない長女のユウに乳母をはじめ、イーライ、サムは不安げな顔をする。
ーー大人にならなくてはいけない。
ユウは必死に自分に言い聞かせる。
今は、父も叔父も母もいない。
生き延びるために、自分達はこの男に縋らねばならないのだ。
「さて、さて、ユウ様」
キヨは転がすように名を呼んだ。
その声音は、背筋に粘りつくような湿り気を帯び、シュリの背中に悪寒が走る。
「顔を上げてくだされ」
その場にいる者すべての視線が、ユウに注がれた。
後方で控えるヨシノは、胸の奥で必死に祈る。
――ユウ様、どうか・・・ここは堪えてください。
やがて、ユウがゆっくりと前へ進み出る。
ドレスの裾がわずかに揺れる。
だが、頭を深く下げたまま、何も言わない。
沈黙を破ったのは、キヨの甲高い声だった。
「どうされましたか」
その瞬間、ユウが顔を上げた。
青の瞳が、鋭い炎を宿す。
だが口は開かない。
声が出ないのではない。吐き出すべき言葉を選んでいる。
長い、長い沈黙。
場の空気がひりつき、誰も息をしなかった。
ヨシノは祈るように目を閉じ、シュリは今にも踏み出しそうに身を乗り出す。
やがて――ユウの唇が動いた。
唇をきつく結び、声を絞り出すように。
「セン家の長女、ユウと申します」
ユウは一歩踏み出し、声を張った。
張り詰めた声が響いた瞬間、ヨシノは思わず口を開けた。
その強さを信じたいのに、信じきれずに。
隣のシュリは固唾をのみ、彼女の一挙手一投足を見守っていた。
今、ただ刃を抜いたのはユウ自身なのだ。
「この度は・・・ありがとうございました」
言葉だけを聞けば、礼の響き。
だが、その青い瞳には、炎が宿っていた。
――感謝ではない。
憎悪と誇りを込めた刃。
その視線に射抜かれ、場の空気が凍りついた。
そのユウを、キヨは惚けた顔で見つめていた。
ーーまるで、シリ様のようだ。
長年憧れていたシリ様が、再び自分の前に現れたかのように。
隣に座っていたミミは、ユウの眼差しにかつての主君を思い出していた。
揺るぎなく射抜くようなその光。
人の心を抉る、容赦のない鋭さ。
ーーあれは、ゼンシ様の目。
見目は確かにシリ様に似ている。
けれど・・・本質はゼンシ様にそっくりだ。
呆然とする領主夫婦に、エルがわざとらしく咳払いをした。
我に返ったキヨは、穏やかな顔を作った。
だが濁った茶色の瞳には、獲物を狙う獣の欲望が滲んでいた。
「ユウ様・・・これからは、わしのもとで安らかに暮らすがよい」
和らげた声色の奥に、抗えぬ支配の響きが潜んでいる。
ユウは黙したまま、ただその目を見据えた。
――安らかに?
母を死に追いやった男に、何を言うのか。
胸の奥に押し殺した慟哭が、光となって瞳に宿る。
憎しみと軽蔑を込めた視線。
その刃は、キヨの笑みをほんの一瞬だけ凍りつかせた。
「・・・強い目をしておる」
愉快そうに呟く声は、空虚な響きを残す。
その口元は、わずかに引きつっていた。
ほんの刹那、笑みが凍りついたのを誰もが見た。
次の瞬間には、いつもの下卑た笑みを無理やり浮かべていたが、
その隙を見逃す者はいなかった。
広間の空気がざわついた。
誰一人口を開かぬまま、肩がわずかに震え、衣擦れの音が重なった。
静かな波紋が、謁見の間をゆっくりと広がっていった。
ユウは唇を固く結び、決して瞳を逸らさなかった。
その眼差しは、誰にも奪わせぬ誇りの証のように揺るぎなかった。
その視線を浴びた者は皆、心の奥に刻まれた。
ーーセン家の娘ユウは、決して屈しない、と。
だが、謁見はまだ終わらない。
キヨの濁った瞳が、次にゆっくりとシュリをとらえる。
「さて・・・乳母子の行末を、ここで決めねばなるまいのう」
その言葉に、ユウの心臓が激しく打ち鳴った。
会見の本当の目的が、今まさに突きつけられようとしていた。
ーー矛先は、ユウではなく、シュリに向けられたのだ。
次回ーー明日の20時20分
(明日から一日一話になります)
「・・・乳母子の行末を、ここで決めねばなるまいのう」
姫と従者の距離を裂こうとする領主の一言が、静寂を裂く。
禁断の絆に火がついたその瞬間、誰も気づかぬうちに――城は、ゆっくりと崩れ始めていた。
◇ 登場人物
ユウ
セン家の長女。十四歳。
両親を殺した男――ワスト領主キヨの庇護を受ける身。
誇り高く、青い瞳に燃えるような静かな怒りを宿す。
シュリ
ユウに仕える乳母子の青年。ヨシノの息子。
幼い頃から彼女を守り続け、誰にも言えぬ想いを胸に秘めている。
ヨシノ
ユウの乳母であり、シュリの母。
二人の“許されぬ絆”を知りながらも、ただ見守ることしかできない。
キヨ
ワスト領の領主。
かつてセン家を滅ぼし、シリの面影を追いながらユウを見つめる。
その瞳には、支配と歪んだ執着が光る。
ミミ
キヨの正妃。冷静に夫を見つめながら、ユウの中に“ゼンシの影”を見る。
エル
ワスト領の重臣。キヨの弟。冷徹な戦略家で、兄の暴走を恐れている。
サム
ワスト領の重臣。シリに仕えた身であるので、三姉妹を守ろうとする。
イーライ
ワスト領の家来。三姉妹を案内する役目を担う。ユウの強さに心を揺らす。
ウイ・レイ
ユウの妹たち。まだ幼く、姉の背にすがるように新しい地へ入る。