現実を生きる
綺麗に食べ終えた弁当を片づけながら、啓人は妙にすっきりした表情で僕の話を聞いていた。
可愛い弟のことを兄の目線で話してやれば不思議そうにして「それがきょうだいなのか」と聞いてきたし、自分が佐伯樹里に持っている感情が姉弟としてではないことをようやく認めた様子だった。
小都子と違うのは、僕には佐伯樹里が必要だという認識がないことだ。
啓人は彼女の相手が僕ならば諦められる、という心境に近いものだったのだろう。男同士という事もあるのかも知れない。僕の好きな相手が小都子で、本気で付き合っているとわかると、僕の心が簡単に動かないことを察してくれた。理央もその点の理解は早かったし、僕の相手が佐伯樹里でなければならないと強く思っていたのは小都子だけだったのかも知れない。
そもそも、啓人は自分が彼女に傾いている心を自覚している。
あの頃だって、いくつものタブーを乗り越えてしまうほどの激情があったのだ。忘れようがないだろう。
「別に本当の姉弟じゃないでしょ」
僕が言うと、啓人はびっくりしたように僕を見た。
「……そんな話してたっけ」
「ごめんごめん、頭の中でしてた」
「朝……」
「好きなんじゃないの?」
そっとしておく選択肢がないので、つっこんで聞かせてもらう。
「いつから? 再婚したのがいくつの時だっけ」
「七つの頃」
「じゃあ一目惚れだ」
「流れるように肯定させる気だな?」
「違うなら違うって言って良いけど?」
昔のような会話のテンポに嬉しくなる。
僕が唯一気を抜いて話すことができる相手だった。
啓人も懐かしむように笑っている。
「もう、わかったよ。七つの頃からの一目惚れ、かつ片思い」
「まだ言ってるの」
「う、る、さ、い」
ふてくされたように言う顔は照れているとしか言いようがない。
「色々あるんだよ」
「ふうん。年の差とか?」
「それもある」
「じゃあ義理の姉ってことも?」
「家族だろ」
「結婚できるでしょ、法律的には」
「世の中の目がある。年上で義理の姉で、世間の風当たりが強いのは絶対に樹里だ」
「なるほどねえ」
啓人は七歳の頃の再婚をきっかけに徐々に記憶を思い出したからか、こっちが「現実」であると理解している。一緒にいるという選択の先を想像し、その上で彼女の気持ちを受け入れようとしてこなかったのだ。
「じゃあ、誰も君らを知らないところまで行ってみなよ。そうすれば、ただの年の差夫婦さ。十七と二十四なら確かに禁断っぽいけど、二十二と二十九なら、別にそんなもんだよ。誰も気にしやしないって」
「本当に変わらないな」
「主張が?」
ぽろりとこぼした啓人に「確かに僕は自分の好きなように生きる、をモットーにしてるよ」と言うと、ホッとしたように何度も頷いていた。
啓人だって、きっと前世の話を僕にしたいわけではないのだろう。
ふと空を見た啓人は表情を緩める。
「誰も知らないところか」
「そうだね、そのためにはどこに行っても働けるスキルがないとね。公務員は辞めといた方がいいんじゃない。啓人だったら美容師とか」
刃物の使い方がうまかったから、という説明を省くと、啓人はけらけらと笑った。
「現実的だな」
「教師と美容師が年の差結婚。ほら、ドラマとかでもありそう」
ありがちな設定を適当に語ってみると、啓人は腹を抱えて笑い、重荷が取れたように清々しい目で青空を見上げていた。
もう僕の前で罪悪感に苦しむ姿を隠すことはないだろう。
友人になれた喜びを丁寧に隠して、僕は隣に座って同じように空を見上げてみた。
どこまでも澄んだ青空だった。
○
「じゃあ、理央くんのことは任せてね」
髪を下ろし、グレーのマフラーを巻いて、僕の見繕ったコートを着た小都子は玄関で理央としっかりと手をつないでいるところを見せた。
気分は保護者なのだろうが、その目をしているのはにこにこしている理央だ。
任せて、と僕にアイコンタクトを送るので、僕は緩く頷いた。
「二人でお出かけかあ。いいな」
「朝くんは待ってて。お土産買ってくるから」
「宿題の為に図書館に行くだけだよ」
理央が嬉しそうに言う。
演技ではなく、彼は本当に嬉しいのだ。小都子のことを好きだし、おつかいも楽しみにしていたし、僕のミッションに冒険者のようにわくわくしていた。それでいてしっかり者なのだから、僕が心配することはない。
まあしかし、家族への秘密のプレゼントを買いに行くという名目で、けれどしっかり宿題を図書館でするとまで誘導したのだからたいしたものだ。
「いってらしゃい。気をつけて。僕はぼーっとし終わったら散歩でも行ってくるよ」
「寒いから暖かくしてね」
「そっちも」
小都子と理央の頭を順番に撫で、送り出す。
見送りは絶対にしないで、と二人に念押しされたので、僕は閉まっていくドアに手を振って見送りを終えた。
さあ。
暇になってしまった。
なにをしようか、と考えてみても、結局小都子がいなければする事なんてない僕は、二人に言ったようにひたすらぼうっとして、昼過ぎにふらりと家をでて丘の上の公園に散歩に出かけるのだった。
「さむいな」
コートのポケットに手を突っ込んで歩く。
ふらふらと歩いていると、時折枯れ葉がくるくるとダンスをしながら僕の隣を通り過ぎていった。
石段を登り切り、開けた小さな公園のベンチに座る。
キンと冷えた空気が海上の風景をより鋭く見せていて、ここに一人でいることに妙に安堵した。
太陽の光を受けて、遠くの海面がスパンコールのように煌めく。
ふと思った。
小都子も啓人も佐伯樹里も、そろそろ前世を置いてくるのだろう。
思い出に変えて、遠い過去にして、現実を生きる。
白い息がふっと目の前に漂った。
僕はきっと、少し寂しいのかも知れない。




