区切り
ふっと風が吹く。
冬の冷え切ったそれが足下から上がってきて、僕は身を縮めた。
昔も、こうして高いところから一人街を見下ろしていた。
それは決まって夜だったので、こうして目覚めた街の景色をのんびりと見ることはなく、僕はいつも星空の下、なにも考えずに自由を過ごした気になっていた。
あの頃の僕。
前世の、アーサーという名の無力な男。
妻に、友人に、嘘を付かせて現状維持を望んでいた愚かな男。
唯一の希望であった人に、絶望を与えた浅はかな男。
僕はそんな前世を受け入れている。
小都子も啓人も、きっとこれから受け入れていくのだろう。
なぜだか、すべてがうまくまとまった後は、彼らは記憶を失っていくような気がした。きちんと置いてきて、現実を生きて、そうして忘れていく。片隅に古い思い出としては残るかも知れないが、そのうち思い出すこともなくなるだろう。そんな確信めいたものを感じた。そのことが、少し寂しい。
僕は前世に固執してこなかった。
それが当たり前のように隣に置いて、その記憶も懐かしんで、小都子を好きな気持ちすら前世がベースにあることも納得していた。
だからこそ、僕がぞんざいに扱うそれを、大事に、それも美しい記憶だけを持っていたくれた小都子や啓人の存在は、昔のどうしようもない自分を肯定されたようで嬉しかったのだ。
僕は救われていた。
「……はあ」
息を吐けば、白いそれがふっと消えてく。
小都子と理央に出かけてもらってよかったかもしれない。
感傷に浸る時間ができた。
僕はしばらく、明るい海を見下ろして、冷たい風をじっと受け続けた。
「あ、おかえり」
僕が家に戻ったのは夕方だった。
結局あのままぼうっと日が傾く空と黄金色に輝く海を見ていて、ふとそろそろ小都子が帰ってくるかも知れないことを思い出したら、体が勝手に動いて帰路についていたのだ。
玄関に入って、小さな靴と小都子の靴を見つけると、ドアの音に気づいた小都子と理央がリビングからひょいっと顔を出して出迎えてくれる。
おかえり、の声がやわらかい。
「……ただいま」
「朝くん、鼻赤い。もしかしてずっと外にいたの?」
「えっ」
理央が「大変だ」とキッチンへと引っ込む。
小都子は自分のマフラーを持ってくると僕の頭をぐるぐる巻きにした。
「ふ」
自分でしていながら、小都子が小さく笑う。僕が首を傾げると「かわいい」と呟いた。
「そんなこと言われるの、初めてだね」
「だって」
小都子はくすくす笑いながら、僕に早く家に上がるように促すと、まるで自分の家のように僕をこたつに押し込み、猫のひいらぎを持ってきて膝に置くと、理央を手伝うためにキッチンへとぱたぱたと走っていく。ひいらぎは僕を動けなくするためらしく、僕はまんまとその真っ黒い背中をもふもふと撫でてじっとしていた。あたたかい。柔らかな重みは、何とも言えない穏やかさを分け与えてくれる。
「はい、兄さん」
「ごめん、ありがとう。小都子もありがと」
「ううん」
ことんと置かれたマグカップから、ミルクのほっとする香りに甘いカカオの風味が立ち上る。
小都子も理央もこたつに入り、三人で「ふーふー」とマグカップに息を吹きかけながら、両親のデートが終わって帰ってくるまでのんびりしたのだった。
「兄さん、いい?」
両親の帰宅後に小都子を隣へ送り、夕食も風呂も済ませた後、部屋に理央がそうっと入ってきた。
大きなクッションでだらけていた僕は、手招きをして理央を呼んだ。
横にすとんと座るので、ぐいっと引っ張って隣に寝ころばせる。
「お疲れさま」
僕が言えば、理央は転がったまま「くふふ」と嬉しそうに笑ってひっついてきた。子供の体温は高くて、傍にいるだけでほっとする。
「小都子のことも、ありがとう」
小都子が混乱や動揺した様子は一切なく落ち着いていたのは、理央が近くにいてくれたからだろう。小都子はきっと、整理ができたのだ。
僕を「かわいい」と言ったあの言葉からは、彼女が葛藤を綺麗に折り畳んだ気配が滲んでいた。
寂しさはあの丘の上の公園に置いてきて正解だった。
ただ穏やかな気持ちで「終わったのだな」と小都子が子供のように笑う顔を見られたのだから。
「そのことだけど」
「うん?」
「あの人にも会って……偶然」
「どっち?」
「……その、あの」
言いよどむ理央の顔を見れば、その相手が啓人だと察することができた。
彼の責任にしたことは、理央の判断だったのだろう。
仕方がない。僕だってそうした。カインだけが、身内のいない人間だったのだから。
「啓人に? 会ったの?」
「……うん。誰かにプレゼントを買いに行く予定だったんだって。僕らが宿題のために図書館に行って、僕が調べるのは今はない欧州の小さな国の歴史だって小都子ちゃんが言ったら、一緒に行くって言い出して」
「えっ」
なんという出来過ぎた偶然なのだろう。
僕が驚くと、理央は「そうだよね」と何度も横で頷いていた。
「じゃあ、一緒に行ったの」
「そう。二人とも、目的を持って本を探して、読んでた。僕もあの国について一緒に本を見てたら、二人に僕がリオだと気づかれちゃった」
安心して、と理央は言う。
「どうしてこの国にしたのかって聞かれたから、この町と似てる気がするしって言っておいたよ。ただ、二人とも顔を見合わせてて、そう言えばよく似てるって」
「似てる?」
「たぶん、兄さんに。昔の兄さんに、かな」
「今も似てると思うけど?」
自分の顔をぺたぺたと触って、理央は嬉しそうに微笑んだ。
そうして理央の語る二人の様子を、僕は静かに聞いて受け止めた。




