許し
小都子はそわそわしていた。
いつもの帰り道も、その後に家に誘って二人で勉強をしたときも。
その小さな体は、僕の存在を全身で感じて、少々挙動不審だった。
それがどれだけ僕を喜ばせたのか、きっと小都子はわからないだろう。
僕が大変上機嫌なので、小都子は赤くなった顔で上目遣いで睨む素振りをするものだから、それがただただ可愛くて、さらに僕は嬉しくて笑うのだ。
浮かれきった僕を、小都子は仕方なさそうに許してくれていた。
頬杖をついて見つめていると横から小都子の肘がつんと突いて勉強を促したり、僕が頭を撫でようとするとサッと避けたり。
たった一時間ほどだけど、僕の勉強は進まなかった代わりに満たされた時間を過ごすことができた。
今までの僕らは、当たり障りのない健全でふつうの恋人同士で、どこか作り物のようだった。僕が必死に心を抑えて、失敗しないように注意を払いすぎていたのかも知れない。長期戦を見越してのことだったが、こうなっては状況が変わったことに感謝をしたいくらいだ。
「小都子」
ふと窓の外が薄暗くなっていることに気づいて声をかけると、彼女は過剰なまでにびくっと体を揺らした。
しばらくなにもせずに、勉強に集中していたせいもあるのだろう、なにも言っていないのに頬を染めて僕を見る。
「な、なに?」
「外。暗くなってきそうだし、帰ろうか。送る」
「……隣だよ」
「隣だね」
「帰れるよ」
「送らせて」
このやりとりは今まで何度もしたが、こんなにも照れている小都子を見るのは初めてで、ついついまた手が出そうになったので、僕は上着を手に先に立ち上がった。袖を通していると、小都子も片づけて立ち上がる。マフラーを取って首にかけてやれば、今度は耳を赤くして、控えめに「ありがと」と呟いた。
外に出たところで、買い物から帰ってきた母と理央が小都子に「もう帰るの」と駄々をこねるのを制して、五歩先の隣まで送り届け、小都子の母親に挨拶をしてから家に戻る。
と、理央が玄関で待っていた。
「おかえり、兄さん」
「ただいま。ここで待ってたの?」
「うん」
「どうした、何かあった?」
僕が聞くと、理央は学校での出来事を僕について回りながら嬉しそうに話してくれた。
夕食まで他愛ない話を聞き、父の帰宅後にもう一度その話をしている理央を眺めながら食卓を囲む。穏やかな家庭だと思う。父と母は信頼関係があるのが子供からも見てわかるし、理央は伸び伸びとしていて、末っ子をみる目はどれも慈しんでいる。
書類仕事も人間関係や情勢の把握も、公務もないふつうの生活。
なんてありがたく、尊いのか。
僕にはもったいない幸せが日常としてあるなんて、時折信じられなくなる。
そういう意味では、ここは夢だと思った方がずっと納得できた。
けれどこれは紛れもない現実だ。
「兄さん、お風呂どうぞ」
進まなかった勉強を一人でしていると、部屋にひょこっと理央がやってきた。
ぽかぽかした血色のいい頬が、僕を見てにこっと持ち上がる。
その顔を見つめて、静かに言った。
「リオ。兄上からお前に頼みがある」
わざと昔の僕が使いそうな言葉で話しかけると、その幼い顔は一瞬にして時を駆けた。何とも言えない複雑な表情が、一拍遅れてぐしゃりと歪む。
ああ、覚えていたのだ。
この小さな体で、彼は自分の過去を背負っていた。
ふるふると震えて手を握りしめる理央を、僕はできるだけ優しく呼ぶ。
「おいで。大丈夫だから」
蒼白な理央は、断罪されるかのように僕の前に立った。
頭をとんとんと撫でてやると、ぼろっと涙をこぼし、崩れるように僕にしがみつく。
「……ごめ、ごめんな、さい」
彼が謝ることはない。
けれど、僕はその背をしっかりと抱き留めて目一杯愛情を注ぐように撫でながら、伝える。
「いいよ。全部、許してる。君が僕のところに来てくれたときから、僕は君が大好きだよ」
何度も頷く理央は、きっと僕を見て号泣した日に「君を許しているから大丈夫」と伝えたことを覚えているのかも知れない。彼に記憶があろうとなかろうと、許しを与えることが必要に思えた。折を見ては「大好きで大切」だと言葉でも行動でも示してきたが、きっと本当はこうして覚えていることを伝えるべきだったのかも知れない。
この小さな体に、四人の死の罪悪感は重すぎる。
「僕こそごめん。君に記憶があるかそうじゃないか、気に留めてなかった。不安にさせたね」
「……そんなことないです、ふつうに接してもらえて本当に嬉しかった」
「ふふ。よかった」
「記憶が」
「うん。あったよ」
けろりという僕に、理央はしがみついたまま「わかんなかったなあ」と呟く。僕がぎゅうっと抱きしめて「僕にとっては可愛くて仕方ない弟なのは変わりないからね」と言うと、嬉しそうに頭をすり寄せてきた。
「全然わからなかった?」
「うん」
「ちなみに小都子にもあるよ」
「えっ」
理央が顔を上げる。
涙に濡れた頬を袖で拭いてやれば恥ずかしそうに目を泳がせた。
「小都子は中途半端な記憶で、もちろん死の間際のことも覚えていない。今まで通りでいいんだよ。そもそも、今の君は東雲理央で、あの国で隠されていたリオではないのだから、なんにも気にすることはない。自分の人生だけを謳歌していいんだからね」
気にするな、と明るく言う僕を見て、リオは不思議そうにする。
「ん?」
「全て覚えているんですか」
その頬をむにーっと柔らかく摘む。
「弟に敬語を使われるなんて寂しいな?」
「……ごめん、兄さん」
「いいよ」
「……全て覚えていてそんなに優しいの?」
「優しくないよ。僕は僕が好きな人を、好きに愛でてるだけだから」
「そういうところが優しいんだよ」
なぜか拗ねた理央の頭を撫でて、僕はもう一度大切なことを伝えるために抱きしめる。それはもう、力一杯。理央が「くるしいよ」と言うまで抱きしめて、笑って離してやれば、理央の顔はもう「弟」に戻っていた。




