「嘘」
掲示板という名の「檻」が解き放たれ、僕たちは暗号のような文字列を交わして、二人だけの電子メールという密室へ移った。
最初の一週間、彼女のメールは掲示板の延長線上にあった。
『流川、おはよう。今日は窓から見える空がとても青くて、流川にもみせてあげたかったなぁ』
けれど、やり取りが重なるにつれ、掲示板であれほど溢れていた彼女の「熱」が、砂時計の砂が落ちるように、一粒ずつ消えていった。
返信が数時間から半日、そして一日へと遅れていく。文面は短くなり、あれほど多用されていた顔文字も消えた。何より僕への問いかけがなくなった。まるで、僕を知ることを、自分から拒んでいるかのように。
僕は焦った。サクラとしての打算などとうに消えていた。
「どうしたんだ、綾。具合が悪いのか。僕が何か、君を傷つけるようなことを言ったかな」
夜明け前、送信ボタンを押す俺の指先は、かつての冷徹さを失い、無様に震えていた。
二日間の沈黙の後、届いたのは、それまでの「綾」という存在が崩壊したような、痛々しい一通だった。
『流川。ごめんなさい。私は、嘘つきなの。
あなたが愛してくれた「綾」なんて、どこにもいない。
掲示板に書いていたプロフィールも、仕事も、趣味も、全部嘘。
私は、自由に走り回ることも、あなたの隣を歩くこともできない。
本当の私は、暗くて狭い部屋の中で、機械に繋がれて、ただ消えていくのを待っているだけの、臆病な嘘つきなんです。
流川の高潔な孤独に触れるには、私はあまりにも汚れすぎていて、あまりにも偽物でした。
私の「本当」を知ったら、流川はきっと、私を軽蔑する。
それが怖くて、でも、あなたの優しさが、今の私には刃物のように痛いんです。
……ごめんなさい。身勝手だとは分かっています。
でも、お願い。私を見つけようとしないで。
機械の音しかしないこの場所で、あなたがくれた「綾」としての偽りの記憶だけを抱きしめて、眠らせてください。
流川、あなたは太陽でした。
その光があまりに眩しくて、影の中にいる私は、ただ一瞬だけ、あなたと同じ世界を生きている夢が見たかった。
このメールが届く頃には、私はもう、あなたの知らないどこかへ、ただの嘘として消えているかもしれない。
さようなら、私の愛した、孤独で美しい人。
どうか、あなたの歩く道が、二度と嘘に汚されることなく、輝きに満ちたものでありますように。
今まで、ありがとう。
本当の私を、知らないままでいてくれて、ありがとう。』
その文字の羅列は、弱々しく、今にも消え入りそうだった。
彼女は、僕が捏造した「嘘の罪」を信じ込み、その「綺麗な傷跡」を汚してはいけないと、自分を責め抜いていた。僕が金のために演じた偽物の悲劇が、現実で必死に生きようとする彼女を、袋小路に追い詰めていた。
「実は、僕もサクラだったんだ」
その一言が、指先まで出かかっては消えた。
僕が真実を話せば、彼女の罪悪感は消えるかもしれない。けれど同時に、彼女が命を削って捧げてくれたあの「愛」までもが、無意味な茶番劇に成り下がってしまう。僕の嘘を暴くことは、彼女の魂の尊厳を破壊することに等しかった。
窓の外では、夜明け前の静寂が広がっている。
僕は、僕自身の嘘の重さに押し潰されそうになっていた。
僕の嘘は、報酬を得るための「冷たい嘘」だ。
彼女の嘘は、生きたいと願うための、そして僕を救いたいと願うための「祈りの嘘」だ。
どちらの罪が深いかなんて、考えるまでもなかった。
その翌日、彼女からのメールは二度と届かなくなった。




