「真実」
一週間後、一通のメールが届いた。差出人は彼女の「親友」だった。
彼女は、重い心臓の病を患い、人生のほとんどを病室の白い天井を見つめて過ごしてきた女性だった。彼女にとって「綾」は、動かない肉体の代わりに手に入れた「本当になりたかった自分」そのものだったという。
『彼女、亡くなる直前まで、あなたのことを話していました。「流川は、私と同じように心に深い傷がある人なの。私が彼を救わなきゃ」って。
自分の命が消えかけていることよりも、あなたについた「嘘」を、何よりも恐れていました。』
僕は、青白いモニタの前で、声を上げずに泣いた。
僕たちの狂宴は終わった。
嘘で塗り固められた世界で、僕たちは確かに、一度だけ魂で触れ合った。
けれど、僕たちが愛したのは、互いの心の奥に隠した「本当の姿」ではなく、絶望の中で必死に作り上げた「美しい偽物」だったのかもしれない。
僕が彼女に教えることのなかった本当の名前は、今も僕の喉の奥に、苦い灰のように残っている。
彼女が守り抜こうとした流川という虚像。
僕が汚してしまった彼女の純粋な嘘。
漆黒の画面に反射する俺の顔は、かつての「流川」でも、冷徹なサクラでもない、ただの情けない男の顔をしていた。
夜明けが来ても、この部屋の温度が上がることは、もう二度とないだろう。
数年後、僕はライターという職を完全に捨て、二度と誰かを動かすための言葉を綴ることはなかった。あの日、運営に叩きつけた辞表は、僕の中に残っていた最後の良心だったのかもしれない。
親友のメールに記されていた住所を頼りに、僕は一度だけ、彼女の眠る墓地を訪れた。
海を臨む高台にあるその場所は、掲示板の喧騒とは無縁の、ただ波の音だけが支配する静かな光に満ちていた。墓石に刻まれた名前は、僕が一度も呼ぶことのできなかった、彼女の本当の名前だった。
僕は花を供え、ポケットから一枚の紙切れを取り出した。そこには、あの日、送信ボタンを押せなかったメールの写しが記されている。
「……遅くなったけど。これが、僕の本当の名前だ」
声に出して名乗ると、海風が僕の言葉をさらっていった。
彼女が愛したのは、過去のトラウマに怯える端正な「流川」だった。目の前にいる、日々の生活に追われ、嘘を売ることをやめた冴えない男の姿ではない。
けれど、彼女が言っていた「本当の名前で呼び合いたい」という願いに、ようやく一つだけ、真実を返せた気がした。
僕は紙切れをライターで燃やした。灰は冬の空に舞い上がり、跡形もなく消えていく。
「さよなら、綾。……さよなら、流川」
僕たちは、偽物の姿でしか出会えなかった。互いに嘘をつき、互いに騙し合っていた。
それでも、あの日、冷たいモニタの向こう側で通わせた、喉の奥が熱くなるようなあの感情だけは、僕の人生において、どんな現実よりも手触りのある「本当」だったのだ。
坂道を下る途中、ふと振り返ると、西日に照らされた墓地が、あの頃の掲示板の背景色と同じ、淡いオレンジ色に染まっていた。
あれから、僕は群馬の山あいで、油にまみれたツナギを着て暮らしている。
フリーライターとしてのペンを捨て、嘘のつけない重いスパナを握る日々。
あの掲示板の狂宴も、青白いモニタの光も、今では遠い前世の記憶のようだ。
ある冬の夕暮れ。工場の隅で古いラジオから流れる流行歌を聞きながら、僕はふと、あの親友から届いた最後の一通のメールを思い出していた。
そこには、僕が墓前を去った後に知ることになる、もうひとつの「真実」が記されていた。
『彼女ね、亡くなる数日前に、たった一度だけ笑ったんです。
「流川は、きっと今頃、一生懸命に自分の嘘を悔やんでる。でもね、サクラだろうが何だろうが、あの人の言葉に救われた私の心だけは、誰にも汚せない本物なのよ」って。』
彼女は最初から、僕がサクラであることを見抜いていたのかもしれない。
あるいは、僕が「流川」という仮面の下で流していた、本物の冷や汗を感じ取っていたのか。
結局、騙されていたのは僕の方だった。
彼女は自分の死という究極の現実を前にして、僕という最大の嘘を、丸ごと飲み込んで許してくれたのだ。
工場の外では、風が吹き荒れている。
僕は、作業台の端に置いた古いノートパソコンを開く。ネットにはもう繋がっていない。
ただ、メモ帳アプリに一言だけ、あの日伝えられなかった言葉を打ち込む。
『君が愛した偽物の僕は、今、本物の油に汚れながら生きているよ』
エンターキーを押しても、どこにも送信はされない。
けれど、暗い画面に反射する僕の顔は、かつての「流川」のような端正な絶望ではなく、ただの、泥臭い一人の男の顔をしていた。
嘘で塗り固められた極彩色の世界で、僕たちは一瞬だけ、剥き出しの魂で触れ合った。
世界中を騙せても、あの瞬間に指先が震えたことだけは、神様にだって否定できない真実。
僕はゆっくりと画面を閉じ、深い闇の中に腰を下ろす。
キーボードを叩いた指先に残る、微かな熱。
それは、偽物だった俺が、本物の誰かを愛そうとした、消えることのない火傷のような痕跡だった。
ラジオを消し静寂が工場を満たしたその時、ふと、耳元で風が揺れたような気がした。
幻聴だろうか。それとも、あの場所に置き去りにしてきた彼女の残響だろうか。
届くはずのない声が、優しく、確かに鼓膜を震わせた。
「……嘘でも、本当でも、私はあなたに出会えてよかったよ。バイバイ、私の流川。」
最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。
本作は、私の中に残るある実話を元に脚色を加えたフィクションです。
拙い筆致ではございましたが、物語の中を駆け抜けた「綾」という一人の存在を胸に刻みたくて、祈りを込めて筆を執りました。
彼女への追悼の意が、この物語を通じて少しでも形を成し、読んでくださった皆様の心に微かにでも響いたのであれば、作者としてこれ以上の喜びはありません。
「綾」がいた証を、物語という形で残せたことに深く感謝いたします。




