「罪」
掲示板の空気は、あの日を境に、どこか甘やかで、むず痒いものへと変質していった。
僕が管理者権限という「神の手」を使い、荒らしの濁流を消し去って綾を守り抜いた夜から、野次馬たち……いや、共に戦ったはずの仲間たちの視線は、露骨なまでの「期待」に満ちていた。
「おいおい、今の見たかよ。流川のあの台詞。『君を傷つけるものは僕が消す』だってさ!」
参加メンバーの一人が、冷やかすような巨大なAAを貼り付ける。
「もうこれ、完全に二人の世界でしょ。私達、お邪魔虫じゃない?」
他のメンバーも、仕事の合間を縫うような、浮き足立ったテンションで乗っかってきた。
「全くだわ。綾も、さっきから流川にしかレスしてないし。あーあ、掲示板がピンク色に見えてきたわね」
「ちょ、ちょっと! みんな、変なこと言わないでよ!」
綾が慌てて書き込む。慌てふためく顔文字がいくつも並び、彼女が画面の向こうで頬を林檎のように赤く染めているのが、手に取るように分かった。
「私はただ、助けてもらって、その……頼もしいなって思っただけで……」
「『頼もしい』、ねえ。はいはい、ごちそうさま!」
そんなやり取りを、僕は自室の薄暗い明かりの下、短くなったタバコを咥えながら眺めていた。
運営からは、無機質なメールが届いていた。
『最高だね。このまま二人の特別感を際立たせれば、カップルになった時のインパクトが跳ね上がる』
僕は「流川」という仮面を深く被り直し、指先に余裕を演じさせながらキーボードを叩く。
「みんな、彼女を困らせないでくれ。僕はただ、大切な場所を守りたかっただけだ。……けれど、綾にそう言ってもらえるのは、正直に言って、悪い気はしないよ」
その一言が投稿された瞬間、掲示板は再び「キャー!」という黄色い歓声の文字列で埋め尽くされた。狂宴の熱が、さらに一段階上がる。
その喧騒の合間を縫うように、綾がそっと、吐息のような一文を書き込んだ。
「ねえ、流川」
彼女は僕の名前を呼ぶ時、「流川」という文字を、まるで壊れやすい宝物でも扱うように、一文字ずつ丁寧に、慈しむように綴るのだ。
「みんなは冷やかすけど……私は、この前の言葉、一生忘れないから。文字だけなのに、本当に隣にいてくれるみたいだった」
その純粋さが、鋭い刃となって僕の胸を刺した。
周りが盛り上がれば盛り上がるほど、彼女が僕に心を預ければ預けるほど、運営の筋書き通りに進む「偽りの告白」へのカウントダウンは、残酷に加速していった。
窓の外では、夜明け前の白々とした光が、罪悪感に沈む僕の部屋を照らし始めていた。
運営からのメールが、深夜の静寂を切り裂くように点滅した。
『完璧な舞台だ、流川。今の彼女は君を救世主だと思い込んでいる。一気に心の奥底まで踏み込め。例の「過去」をぶちまけて、彼女の情愛を爆発させろ。』
僕は奥歯を噛み締め、指先の震えを抑えながらキーボードに向かった。青白いモニタの光が、罪悪感で歪む僕の顔を照らし出す。
「……実は、僕にはどうしても消せない傷があるんだ。かつて、すべてを捧げて愛した女性がいた」
捏造された悲劇が、黒いインクのように掲示板を汚していく。
「僕の夢ばかりを追いかけて、彼女の沈黙に気づけなかった。ある日、彼女は僕の目の前で自ら命を絶った。僕が彼女を殺したも同然なんだ。それ以来、僕は誰かに優しくされるたび、あの時の冷たい沈黙を思い出して逃げ出したくなる。君の温かな言葉さえ、今の僕には身に余る罰なんだよ」
送信ボタンをクリックした瞬間、掲示板のログは、野次馬たちの「伝説の神回確定」「重すぎる……」「綾、救ってやれよ!」という無責任な熱狂で埋め尽くされた。
他の参加メンバーも、そのあまりの衝撃に言葉を失った。掲示板を支配していた甘やかな空気は一変し、そこには「死」の匂いのする、重苦しい静寂が横たわった。
けれど、綾だけが、凍りついたように沈黙した。
一時間。二時間。彼女のログインが消えた。
翌日も、掲示板に彼女の姿はなかった。
「綾、大丈夫かな」「流川の告白にショック受けちゃったのかな」
仲間たちの不安な書き込みだけが虚しく流れ、運営からは『まだか、早く反応を引き出せ』と苛立ちの混じったメールが届く。僕は暗い部屋で、ただ一文字も増えない画面を凝視し続けていた。
そして、二日後の深夜二時。
掲示板の更新ボタンを叩いた僕の指が、物理的な重みを感じて止まった。




