「綾」
掲示板の喧騒が嘘のように静まり返る、午前三時。
その時間だけは、運営からの「盛り上げ」の指示も、サクラとしての義務感も、深夜の底へ沈んでいくようだった。
青白いモニタの光に照らされた僕の狭い部屋で、唯一動いているのは、綾と僕の、二人だけの対話ログだった。
『ねえ、流川。さっき言ってた「雨の匂い」の話、すごくよくわかるよ。私もね、窓を開けてその匂いがしてくると、世界が新しく作り直されてるみたいな気がして、ちょっとだけ深呼吸しちゃうんだ』
彼女の言葉には、不思議な手触りがあった。
他の参加者たちが、僕の作り上げた「流川」という虚像の華やかな経歴や哀愁に群がるのに対し、彼女だけは、僕がふとした拍子にこぼした――設定には存在しない、取るに足らない本音――を拾い上げた。
僕は、用意していた「孤独なエリート」らしい気の利いた台詞をバックスペースで消した。代わりに、自分でも驚くほど素直な言葉を打ち込んでいた。
「……綾は、僕が一度も口にしなかったことまで、知っているみたいだね」
『あはは、そんな大げさな。でもね、文字を見てるとわかるよ。流川の言葉って、時々すごく寂しそうに震えてるもん。一生懸命、誰にも見つからないように隠してるみたいに』
心臓の奥が、冷たい水に浸されたようにひやりとした。
見透かされている。
サクラとして嘘を吐き、誰かをコントロールしているつもりでいた僕の、その奥底にある「本物の空虚」を、彼女は無垢な言葉で「震え」と呼び、優しく撫でたのだ。
僕は、タバコの灰を落とすのも忘れ、画面を凝視した。
彼女のアイコンの、ひまわりのような笑顔。それがただのデジタルデータだとは、もう思えなくなっていた。この文字の向こう側には、僕と同じように夜の静寂の中で呼吸をし、指先を動かし、何かに怯えながらも「誰か」を求めている生身の人間が、確かに存在している。
「綾と話していると、自分が誰なのか、わからなくなるよ」
『いいじゃん、わかんなくなっても。ここで話してる時間が「本当」なら、それで十分だよ。私は、今の流川の言葉、信じてるから』
その瞬間、僕の中で何かが決定的に壊れた。
守るべきだった「優しい嘘」の境界線が、彼女のまっすぐな信頼によって、音を立てて崩れ去っていく。
彼女を騙しているという罪悪感。けれど、彼女とだけは「本当」の言葉で繋がっていたいという、身勝手な渇望。
その矛盾した感情が、泥のように僕の心に溜まっていく。
「……僕も、綾の言葉を信じたいと思ってる。本当だよ」
エンターキーを押す指が、微かに震えていた。
それが、僕というサクラが、自分の仕掛けた罠に自ら足を踏み入れた、最初の一歩だった。
掲示板の空気は、かつてないほど凪いでいた。
『流川のお薦めしてくれた本、読んだよ! 寂しい夜にぴったりな、優しい物語だね』
『わあ、麦茶さんも読んだの? 私も読みたい! 貸し借りできないのがもどかしいね(笑)』
綾を中心に、OLの「麦茶」や、大学生の「テツ」といったメンバーたちが、まるでお茶の間で寛ぐ家族のように言葉を交わす。僕は運営の指示通り、時折影のある、けれど慈愛に満ちた「流川」として、彼らを繋ぐ結節点になっていた。
だが、その平穏は一夜にして、泥靴で踏みにじられた。
深夜一時。突如として、掲示板の更新速度が狂った。
「偽善者乙」「中身はネカマのデブ」「リア充爆発しろwww」
画面を埋め尽くすのは、脈絡のない罵詈雑言と、目を背けたくなるような卑猥な画像の数々。どこかの巨大匿名掲示板から流れ込んできた「荒らし」の集団だった。
『ひどい……どうしてこんなことするの?』
綾が真っ先に声を上げた。彼女のアイコンが、悪意の渦に呑み込まれていく。
「お前が一番うざいんだよ、綾。特定してやるからな」
『やめて! みんな、落ち着いて。話をすればわかるはずだよ』
綾は必死だった。彼女はこの場所を、自分の純粋な「居場所」だと信じ切っていた。
『テツ君、麦茶さん、大丈夫? 怖がらないで』
彼女は自分への攻撃を顧みず、仲間たちを励まそうとキーボードを叩き続けた。だが、その無防備な善意こそが、荒らしにとっては最高のご馳走だった。
「おい、こいつマジで信じてやがるぞ。ウケるwww」
「感動の押し売りやめろ!」
だが、いつもなら怯えてログアウトするはずの他のメンバーたちが、この夜は違った。
『綾をいじめるな! ここは僕たちの場所だ!』
テツが、慣れない強い言葉で荒らしに立ち向かう。
『そうよ。顔が見えないからって、何を言ってもいいわけじゃないんだから!』
麦茶も後に続く。綾のひたむきさが、臆病な参加者たちの殻を破らせたのだ。
その時、僕の中で「サクラ」としての冷静な打算が、パチンと音を立てて弾け飛んだ。
「荒らしは放置が一番」――そんな鉄則は分かっていた。だが、画面の向こうで一人、牙を剥く獣たちに立ち向かい、震えているであろう綾の姿を想像すると、指先が怒りで熱くなった。
僕は、一般ユーザーには開放されていない、運営から与えられた「管理者コマンド」を叩き出した。
本来はトラブル対応の最終手段として渡されていた権限だ。黒いコンソール画面に、青白い文字が走る。荒らしのアドレスを一つずつ、無機質に、そして徹底的に弾き飛ばしていく。
カチ、カチ、カチ……。
静まり返った四畳半の部屋に、マウスのクリック音だけが銃声のように響く。
数十分の格闘の末、掲示板から罵声が消えた。
嵐が去った後の、寒々しい静寂。僕は震える指で書き込んだ。
「……綾。もう大丈夫だ。君を傷つけるものは、すべて僕が消した」
『流川……。ありがとう。本当に、本当に怖かった……』
彼女の短い返信。その向こう側に、安堵で泣き崩れる一人の女性の気配を感じた。
テツや麦茶も「流川かっこいい!」「やっぱり絆は勝つんだね」と、無邪気に僕を讃える。
だが、僕は知っていた。僕が荒らしを消せたのは、僕がこの場所の「神」である運営側の人間だからだ。
絆が勝ったのではない。僕という「嘘」が、別の「悪意」を排除したに過ぎない。
「みんなの絆が、悪意に勝ったんだ。僕たちの場所を、守り抜けたんだね」
自分でも反吐が出るような白々しい嘘を上書きし、掲示板はさらなる「感動」の渦に包まれていった。
僕は、彼女を守ったという傲慢な実感と、彼女を究極の欺瞞の中に閉じ込めてしまったという絶望の間に、深く沈み込んでいった。
掲示板の喧騒が引き潮のように去った、午前二時。
他のメンバーたちが興奮冷めやらぬままログアウトし、画面に残されたのは僕と彼女の、二人分の接続通知だけだった。
『……流川、まだ起きてる?』
彼女の書き込みに、心臓の奥が跳ねた。
「ああ。綾が心配で、目が冴えてしまったんだ」
僕は運営から与えられた「影のある守護者」という仮面を被り直し、慎重にキーボードを叩く。けれど、その指先は自分でも驚くほど冷たかった。
『私ね、画面が荒らしの言葉で埋め尽くされたとき、本当に世界が終わっちゃうかと思った。でも、テツ君も麦茶さんも、みんなが私のために怒ってくれて……。そして最後に流川が、全部の闇を消してくれたとき、涙が止まらなくなっちゃった』
「……僕は、みんなを傷つけるものが許せなかった。それだけだよ」
『ねえ、聞いて。私、ずっと臆病だったの。誰かに嫌われるのが怖くて、いつもみんなの顔色を伺って、明るい「綾」を演じてた。でも今夜、流川の言葉を聞いて、初めて誰かに「守られてる」って感じたんだよ。文字だけなのに、流川の体温が伝わってくるみたいだった』
彼女の告白は、鋭利なナイフとなって僕の良心を切り裂いた。
彼女が感じた「体温」の正体は、特権的な管理者コマンドの無機質な行使に過ぎない。僕が英雄になれたのは、僕がこの世界の「ペテン師」だからだ。
「大げさだよ。僕はただ、綾という光を消したくなかっただけだ」
『光なんかじゃないよ、私なんて。本当はもっとちっぽけで、真っ暗な場所に一人ぼっちで……。でも、流川と出会えて、私、少しだけ自分を好きになれそうな気がする。ねえ、いつか文字じゃない場所で、本当の名前を呼んでもいい?』
画面の向こうで、彼女が呼吸を整え、意を決してタイプしている気配が伝わってきた。
それは、サクラとしての僕が手に入れた「最高の戦果」であり、一人の男としての僕にとっては「最悪の罪」の始まりだった。
「……ああ。いつか、そんな日が来るといいな」
嘘を重ねるたびに、僕と彼女の距離は近づいていく。
彼女が僕に心を開けば開くほど、僕が抱える「秘密」という名の重力は、僕たちの未来を容赦なく押し潰そうとしていた。
窓の外では、夜明け前の白々とした光が、新宿の街を冷ややかに照らし始めていた。




