「流川」
「流川」という名を与えられる前、僕はただの、明日をも知れぬフリーのライターだった。
時は2000年代初頭。インターネットがまだ、選ばれた者だけが触れられる「魔法の箱」だった頃の話だ。
新宿の片隅、家賃4万5千円の木造アパート。湿気た畳の匂いと、吸い殻が山盛りになった灰皿、そして机の上に散乱した「不採用」の通知。それが僕の現実のすべてだった。世の中の真実を暴きたいなんて青臭い志を抱いてこの世界に飛び込んだはずが、現実は、安っぽい週刊誌のゴシップ記事を一文字数円の報酬で書き飛ばす日々。
そんな僕の元に、かつてのライター仲間から一本の電話が入った。
「面白い仕事があるんだ。ヤラセとかじゃない。ただ、新しく立ち上がる掲示板の空気を少しだけ『盛り上げて』ほしいんだよ」
導かれるままに訪れたのは、代々木にある小さな、陽だまりのようなオフィスだった。プロデューサーを名乗る男は、穏やかな笑みを浮かべて僕を迎え入れた。
「僕たちは、ネットという冷たい場所に、温かな『物語』の種をまきたいんだ。不器用な人たちが本音で語り合えるきっかけを、君のその綺麗な言葉で作ってくれないか」
彼は、僕の前に一枚の企画書を置いた。
それは、特定の掲示板を舞台に選ばれた男女が匿名で交流し、その恋模様を不特定多数のユーザーが観測・応援する、新型の「ネット掲示板型・恋愛リアリティショー」の台本だった。
そこには「流川」という、僕が演じるべき設定が記されていた。
――育ちが良く、端正な顔立ち。しかし、過去に愛した女性が自ら命を絶ったという凄惨なトラウマを抱え、新しい恋に踏み出せない孤独な男。
「君がこの『流川』として、皆の中に混ざってほしい。誰かを騙すためじゃない。君が先陣を切って弱さを見せることで、他の参加者も、自分の内面をさらけ出しやすくなる。誰かを幸せにするための、優しい嘘だと思ってほしいんだ」
男の言葉は優しく、誠実そうに響いた。
空っぽの冷蔵庫と、督促状の山。それに、自分の言葉が誰かの「居場所」を作る助けになるならという淡い期待が、僕のわずかな自尊心を塗りつぶした。
「……わかりました。物語のきっかけを作る、それだけなら」
僕は契約書にサインをした。ペンを捨て、代わりに「虚像」を紡ぐためのキーボードを握った。鏡に映る冴えない自分を殺し、青白いモニタの光の中に、高潔で孤独な「流川」を産み落とした。
それが、取り返しのつかない狂宴への入り口だった。
「流川」として掲示板に参加して数週間。僕は運営の狙い通り、コミュニティの中心人物になりつつあった。僕の少し影のある、けれど知的な物言いは、参加者たちの好奇心と信頼を集めた。
『流川の言葉、いつもハッとさせられる。俺ももっと本音で語り合いたい!』
『小説家さんなんですか? 私、本を読むのが大好きで……』
特に「綾」というアカウントは、天真爛漫で少し天然な、太陽のような存在だった。彼女の周りにはいつも人が集まり、掲示板の空気は僕が思っていた以上に、温かく、穏やかなものになりつつあった。
『今日はね、みんなに秘密のレシピを教えちゃう! 私のおばあちゃんの味なんだよ』
そんな彼女の書き込みに、誰もが和まされ、レシピを教え合う平和な時間が流れていた。誰もが偽名で、仮面を被っているはずなのに、そこには確かに、真心の通い合いが存在していた。
僕は、自分が作り出した「流川」という虚像が、皮肉にも本物の共同体を生み出していることに、奇妙な満足感さえ覚えていた。
「これは優しい嘘なんだ」
僕はそう信じていた。
運営の男は優しかった。僕に与えられた報酬は、真面目に記事を書いていた頃の何倍にも膨らみ、届くメールの文面は常に丁寧で、僕の「創作活動」への配慮に満ちていた。
『流川さん、今のトーン、とても素敵です。おかげで掲示板の空気が見違えるほど温かくなりました。皆が安心して本音を語り始めていますよ』
そんな言葉を受け取るたび、僕は自分の行為が「善行」なのだと自分に言い聞かせた。これは誰かを傷つけるヤラセではない。不器用な人々が繋がるための、美しい装置なのだと。
けれど、違和感は確実に蓄積していった。
掲示板には、僕が作り上げた「流川」という偶像を慕う参加者たちの書き込みが溢れていた。そこでは皆、現実では誰にも見せられないような、剥き出しの孤独や悩みを吐露していた。
『流川の言葉、すごく心に響くよ。俺も実は……』
『流川の小説のような生き方が羨ましい。私にも、そんな強さがあれば』
参加者たちの切実な言葉に触れるたび、僕は自分が売っているものが、どれほど強力な「麻薬」であるかを思い知らされた。僕が紡ぐのは嘘だ。けれど、受け取る側が注ぎ込む熱量は本物なのだ。この歪な温度差を目の当たりにするたび、背筋が凍るような感覚に襲われた。
「これは仕事だ。……これは、ただの仕事なんだ」
壊れたレコードのように自分に言い聞かせ、僕は運営にメールを送りつけた。
「皆があまりにも真剣すぎて、少し怖いです。このまま『流川』を演じ続けても大丈夫なのでしょうか」
返信はすぐに届いた。
『大丈夫です。僕たちはあくまで「きっかけ」を提供しているに過ぎません。その先で生まれる感情は、彼ら自身の本物です。僕たちは、彼らが本物に出会う手伝いをしているんです。自信を持って、その優しい嘘を紡ぎ続けてください』
「優しい嘘」。
僕は、自分が信じられないほど巧妙に嵌められている気がした。いや、騙されているのは僕ではない。画面の向こう側で、実体のない偶像に希望を見出している無数の「誰か」だ。
そして、その群衆の中に、ひまわりのような笑顔のアイコンを掲げ、天真爛漫な言葉を綴る「綾」のアカウントを見つけたとき、僕の指先は初めて、明確に震えた。
この優しい檻の中で、僕はいつか取り返しのつかない罪を犯すことになる。
その予感は、今や逃れようのない確信へと変わっていた。




