第17話 ふたりの名前の看板
最終話になります。
雪が解け、ノルデンに遅い春がやってきた。
山の稜線はまだ白いけれど、町の石畳のあいだからは小さな花が顔を出し、窓辺の鉢植えも一斉に芽吹き始めている。
午前四時。
まだ町が眠っている時間に、私は窯に火を入れる。
裏庭の薪置き場には、今日も屋根に届きそうなほどの薪が積まれていた。
毎朝、誰かさんが、訓練と称して割っていくのだ。
「……おはよう」
いつのまにか、背後にその誰かさんが立っていた。
私の腰に、後ろから大きな腕が回される。
肩に、こつんと額が乗った。
「おはようございます。……エーリクさん、生地こねられないんですけど」
「……もう少し」
「さっきも、もう少しって言いましたよね?」
「……言った」
腕が、離れる気配はまったくない。
結婚してからというもの、エーリクさんは毎朝この調子だった。
無口で無愛想なのは相変わらず。
けれど、二人きりになると、まるで大きな犬みたいに、ぴったりとくっついて離れない。
私が台所に立てば後ろにいるし、窯の前にしゃがめば隣にしゃがむし、店番をしていれば、カウンターの奥の椅子にずっと座っている。
(団長さんに、「あいつ、仕事中もずっとそわそわしとる」って笑われてたなあ)
私は、こっそりため息をついた。
……ため息のつもりが、口元は勝手にゆるんでいた。
この春、いくつかのことが変わった。
ベネディクト元神官長は、王都で裁かれ、神殿を追放されたと聞いた。
すべての位と財産を取り上げられ、今は南の果ての修道院で、一日中、床を磨いているそうだ。
召喚の儀の決まりも改められた。これからは、聖女様には十分な休息が与えられ、神殿ではなく陛下の直属として守られることになったという。
ひなたちゃんは、冬の大浄化を見事にやり遂げた。
北の谷の魔物はほとんど姿を消し、ノルデンにはここ何十年ぶりかの穏やかな春が訪れた。
今は王都に戻り、聖女として各地を巡っている。
けれど、ひと月に一度は必ず、ノルデンに「休養」にやって来る。
そのたびに、店の二階で一日中眠って、メロンパンを三つ食べて、私と一緒に生地をこねて帰っていくのだ。
『紬さんのパン屋さんが、私の実家です!』
この前の手紙には、そんなことが書いてあった。
大きな字で、何度も何度も。
私はその手紙を、カウンターの奥の引き出しに、大事にしまってある。
それから、もう一つ。
店の看板が、新しくなった。
開店前、エーリクさんと二人で、店の前に出た。
入口の上にかかった、真新しい木の看板。
麦の穂と、丸いパンの絵。
その下に、二つの名前が、並んで彫られている。
『ツムギとエーリクのパン屋』
辺境伯家の奥方の店に、そんな気の抜けた名前はどうなのかと、最初は思った。
でも、エーリクさんが、どうしても自分の名前も入れたいと言って譲らなかったのだ。
無口な人が、珍しく三回も同じことを言ったので、私のほうが折れた。
「……いい看板だ」
隣で、エーリクさんが満足そうにつぶやいた。
「エーリクさんの名前、パン屋に入ってても大丈夫なんですか? 辺境伯様の弟なのに」
「……兄上は、笑っていた」
「笑ってたんですね」
「……腹を抱えて」
私は思わず噴き出した。
エーリクさんは、ほんの少しだけ、むっとした顔をした。
それから、私の手を取った。
指と指を絡めるように、しっかりと。
「ツムギ」
「はい」
「……あの報告書は、人生で一番の嘘だった」
「嘘、ですか?」
「……一番、ついてよかった嘘だ」
ぽつりと落ちたその言葉に、胸がいっぱいになった。
『ご命令の件、滞りなく』
騎士になってから、一度も上官に嘘をついたことがなかったという人。
その人が、騎士の身分も、家の名も懸けて、たった一行の嘘を書いた。
あの一行がなければ、私の人生は、あの冬に終わっていた。
けれど、この人が、もう一度始めてくれた。
「……じゃあ私は、その嘘に、一生かけて責任を取ってもらいますね」
握った手に、力をこめる。
エーリクさんの耳が、春の光の中で、真っ赤に染まっていた。
通りの向こうから、子どもたちの駆けてくる足音が聞こえた。
杖をついたおじいさん。ショールを巻いたハンナさん。粉の袋を担いだルカさん。
今日も、いつもの朝が始まる。
私はエプロンのひもを結び直して、扉の札をひっくり返した。
「おはようございます! ツムギとエーリクのパン屋、本日も開店です!」
焼きたての匂いが、ノルデンの春の朝に広がっていった。
聖女召喚の「おまけ」だった私は、今日も、世界で一番好きな人の隣で、パンを焼いている。
(完)
これにて完結となります。お読みいただきありがとうございました!
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