27年の妥当性
2026年6月22日
旭川女子高生殺害事件の一審判決が下り、主犯格とされる被告の内田梨瑚に懲役27年の刑が言い渡された。
この事件は、その残虐性から非常にセンセーショナルな報道が繰り返され、その注目度は高く、逮捕時から様々な意見が飛び交っていた。
そして、この日下された懲役27年という判決。
ネット上ではこの判決に対して不満を持つ人が多く見受けられ、判決直後にはこの判決に納得がいかずに裁判所に乱入し逮捕される者までいた。
この国には思想の自由がある。
故に司法の判決に人それぞれ何を思うかも当然に自由だ。
しかし、先述の乱入者だけでなく、ネット上には裁判官の名前と顔を晒してその罷免を願う書き込みが拡散され、あまつさえ司法と被告の癒着をにおわせるような書き込みまでもが散見されているこの現状は、果たしてその想定した自由の中にあったのだろうか。
この事件に対する憤りは理解できる。
被告の年齢から計算すると27年後、彼女はまだ50代という若さで釈放されることになる。あれほどのことをしておいてそんなことが許されるのか。という気持ちは理解できる。俺も同じだから。
しかし、いや、であるならばこそ、この件に関して本気で声を上げるのならば、この27という数字の理由について感情ではなく理屈で整理して、理解しなければならないと思う。
なぜ、検察の求刑は27年だったのか。なぜ、裁判所は求刑通りに判決を下したのか。
もし、今その胸にある憤りが正義への陶酔ではないのならば、声を上げるのはそれを調べてからでも遅くはない。
俺は弁護士ではないし当事者でもないので、100%正しいことは書けないけれど、ド素人の人間でも調べられる範囲で理解した懲役27年という判決の理由を、ここに書きたい。
この記事では、あくまで「現行の司法から見た懲役27年の妥当性」をテーマにして執筆いたしますので、詳細な事件概要は省きます。
【有期刑と無期刑】
懲役27年という刑罰は、いわゆる有期刑(期限がある刑)にあたる。
刑法の定める刑罰においては、死刑の下に無期刑と有期刑がある。
そして、今回争点となっているのはこの有期刑が選択されたことについてだ。
ここからはあくまで感情ではなく法律ベースで語るので、そこは注意してほしい。
まず、大前提として今回の事件において死刑という選択はあり得なかった。
これは有名な永山基準の影響によるところで、現行の日本の司法においては殺人罪で死刑に該当するのは複数の被害者がいる場合というのが一つの目安になっている。なので今回の事件には当てはめることは難しい。
そして、無期刑。いわゆるところの無期懲役だが、検察は今回これを求刑しなかった。
もちろん、この事件の残虐性、被告の罪の重さを考えると無期懲役を求刑したいのはやまやまだっただろうが、それはできなかった。
その理由は後述する。
そして、実際に下ったのが懲役27年の有期刑。
有期刑は最大でも30年まで(併合罪)と決まっているため、27年という数字はほぼ有期刑の天井にあたる。
稀に30年の判決が出ることもあるが、それは今回のような悪質性の積み重ねというより、本来は無期刑相当の罪を、酌量の余地があって有期まで下げた上から降りてくる特別枠として出ることが多い。
現にこの記事を書いている6月25日、同時期に起きた江別大学生集団暴行死事件で、中心人物とされる川村被告に強盗致死が認められ懲役30年の判決が出たが、これは川村が死に至った暴行そのものへの関与が薄かったことなどを理由にした無期求刑からの減刑であり、まさにその典型だ。
そうした実情を踏まえれば、悪質性を積み上げて届いた27年は、有期刑のほぼ天井と表現して差し支えない。
つまり今回の判決は、有期刑の中で最も重い部類だ。
この点で、X等で散見される「もっと年数を伸ばせ」という批判はもう成り立たない。これ以上は伸ばしようがないのだから。
【なぜ無期でないのか】
旭川事件に話を戻すと、今回の判決を巡る論争の争点は年数というより「なぜ無期ではないのか」という点である。
永山基準の知名度もあって、死刑判決を下すことが無理筋であるということはほとんどの人が肌感覚で理解している。
しかし、無期刑でないことに納得のいかない人は数多くいる。
懲役27年という判決が下ったその最大の理由は、そもそも検察の求刑が27年だったからだ。原則として、裁判所は求刑を超える判決を出すことはない。
ではなぜ、検察は27年を求刑したか。
まず、法の枠組みの話をすると、有期刑の上限は1罪のみなら20年で、複数の罪をまとめて裁く併合罪になると、その上限は30年まで引き上げられる。
つまり、たとえ殺人でも殺人罪の1罪のみで起訴した場合、有期刑であれば20年が上限だ。
実際にニュースで観る殺人事件の判決で23年前後が多いのは、殺人に他の罪を併合して20年を超えているということだ。
検察としても、一人の人間を殺した犯人へ与える罰の重さとして20年という数字は軽いため、どうにかして併合罪にして20年の壁を突破しようと腐心しているのだろう。
しかし、強盗致死となると話は変わる。
強盗致死の法定刑は原則として無期か死刑のみだ。
それ故、今回のような集団暴行事件においては強盗致死の適用が量刑を大きく左右することになる。
ここまでを踏まえると、旭川・江別の両事件の検察の戦い方の違いが見えてくる。
江別事件に関して、検察は強盗致死で起訴し、無期を求刑した。
一方、旭川事件において検察は強盗致死による無期ではなく、殺人・不同意わいせつ致死・監禁の併合罪として積み上げ、有期刑のほぼ上限である27年を求刑したということだ。
では、なぜ検察は強盗致死で攻めなかったのか。
【強盗致死ではない理由】
報道にもあるように内田らは、犯行当日に被害者からPayPay残高の10万円を奪っている。
ならばこれを強盗致死と捉え、無期を求刑する道もあった。
が、検察はそれをしなかった。
理由はおそらく、強盗致死の要件を満たすことができなかったからだ。
強盗致死というのは、簡単に言えば「金品を奪う目的で暴行をし、その結果相手を死に至らしめた」という罪だ。つまり「暴行は金品を奪うための手段であった」という前提が必要だ。
ところがこの事件はその要件を満たさない。
なぜなら、PayPayの10万円を奪ったのは事件現場となった橋の上に連れて行くより前であり、財産を奪ったことと、直接死に繋がった暴行は動機と時系列の面で切り離されている。
内田ら自身も「制裁目的による犯行」と供述しており、これを財産を奪うための強盗致死だとみなすのはかなり難しい。
対照的なのは江別事件で、この事件も発端は男女の別れ話であり純粋な動機としては強盗目的とは違ったはずだが、暴行の最中に財産を奪ったことでその前後の暴行は「金銭を奪う目的であった」という強盗の要件を満たしたため、検察は強盗致死として起訴することが出来た。
裏を返せば、旭川事件の内田らが橋の欄干で被害者を座らせたあの時点で被害者のスマホを奪いPayPay残高を引き出していれば強盗致死として戦えたのかもしれない。
そう考えると、市民感情としては悔しいが内田らは時系列の妙により、より重い罪をすり抜ける格好となった。
以上が、検察が無期ではなく27年を求刑した理由だ。
【検察の戦い】
本来のこの記事の目的だけならここで終わってもよいのだが、どうしても書きたいことがあるのでもう少しだけ続ける。
今回の事件、強盗致死で起訴しなかった検察、懲役27年を下した司法ばかりがとりざたされて叩かれている。
しかし、先述した通りこの事件は強盗致死の要件を満たす可能性は非常に低く、無期求刑は現実的でなかった。
それならば有期刑の天井を目指す必要があり、懲役27年という判決はそれを勝ち取ったとも言える。
その戦いについて、少しだけ書きたい。
この裁判は世間の論点とは違い、実行の有無が争点だった。
今回の裁判、内田側は一貫して「押してない。私たちが知る限り被害者は川に落ちていない」と、殺人罪については無罪を主張していた。
そして、やっかいなことに内田が実際に押して川に突き落としたという物的証拠はなかった。
唯一の証拠は共犯の小西による「内田が押して突き落とした」という証言だが、実は共犯者からの証言というのは、責任をなすりつける利があるため第三者の証言に比べて遥かに証拠能力が低い。
小西は既に刑が確定しているとはいえ、それでも心情的に全責任を内田になすりつける利は残る。それ故、この小西の証言は決定打になり得ない。
「疑わしきは被告人の利益に」という推定無罪の法則がある中、検察はこの不利な状況を突き崩して内田の殺人罪を立証させる必要があった。
【検察の戦略と司法の判断】
このまま証拠のない実行行為の有無で争った場合、最悪の場合、殺人罪が認められない可能性もあった。
そこで、検察は何を実行行為と捉えるかという点を、実際に押したかどうかではなく被害者が死に至るまでの過程に絞った。
つまり検察は
「この事件において実行行為とは、自らの手で突き落としたかどうかで争うべきではなく、被害者が死亡する状況を作ったことにある。仮に自死だったとしてもそれ以外を選択できない状況に追い込んだことは殺人に他ならない」
といった旨の主張をした。
そして、司法の判決は検察の求刑通りの懲役27年。
裁判官は物的証拠も自白もない中で、内田の無罪主張を完全に退けて、被害者を追い込んだ内田の行為を殺人の実行として認めたということだ。
平成十六年の最高裁判決で、これに似た結論の判例があるとはいえ、推定無罪の現在の司法の中で、否認事件にこの結論を下すことは決して容易なことではない。
つまり、この戦略を選択し貫いた検察、求刑通りの判決を下した司法は、現在の日本の法律の範囲内で実現可能な最も重い罰を内田に与えたと言える。
【個人的な感情】
ここまでは、法律と現実に行われた法廷闘争の話。
しかしこれは俺のエッセイなので、最後に人間として個人的な感情を書き殴りたい。
まあ、許せないよやっぱりさ。
旭川事件の内田の27年も、江別事件の川村の30年も、何の罪もない一人の人間に筆舌に尽くしがたいほどの苦痛と屈辱を与えて、その命を奪ったという罪に対してはあまりに軽すぎるよ。
模範囚なら20年未満などと都市伝説のように言われていたかつてと違って、現在の無期懲役においては、仮出所までの期間は30年を大きく上回り、50年以上という例も珍しくない。
つまり、無期懲役なら内田、川村は今後の人生をほぼ塀の中で過ごすことになる。
しかし30年以下の有期刑が出てしまった以上(川村は検察の控訴があるかもしれないが、内田は求刑通りのため恐らく確定する)、先ほども言ったが彼女たちは50代で出所をすることになる。
人生100年時代と言われる現在の日本において、50代での社会復帰は決して遅くはない。人生をもう一度やり直すことのできるタイミングだ。
他人の人生を奪った彼女たちに、自分の人生をやり直す権利がある。というのがどうにもやりきれないよ俺はさ。
ちょっと過激なことを言えば、個人的には殺人、強姦、詐欺、そして選択肢の少ない人格形成期におけるいじめ、この辺りの罪を犯した人間が、その後の人生に希望を持つことを許したくはない。
全て死刑にすべきなどと単純な主張はできないが、少なくとも他人とその家族恋人の人生を潰し、尊厳を踏み躙った人間が明日に希望を持つことができる今の罪と罰のバランスは歪んでいると俺は思う。
無期であれば明日に希望を持つことはできない。塀の中でどれだけ更生しようと反省しようと真面目に懲役をこなそうと勉強しようと、恐らく死ぬまで塀の外に出ることはできない。そして死ぬ自由もない。という明日の無い生き地獄は、俺達が想像するよりも遥かに苦しいはずだ。他人の人生を潰した代償にふさわしく、ある意味では死刑よりも恐ろしい罰という見方も出来る。
今回の事件の残虐性、情状酌量の余地のなさから鑑みるに、彼女たちにはこれくらいの刑が与えられてしかるべきだったと思う。
更に言えば、旭川事件、江別事件ともに複数いる共犯者はもっと軽い刑が確定していたりもする。
江別事件の強盗致死の共犯である16歳は少年法により10年前後の不定期刑になっている。つまり20代中盤という若さで社会復帰できる。
旭川事件の共犯の少年少女は保護処分となっており、処分内容は非公開だが、強盗致死で起訴されて公開手続きがとられた江別事件の少年よりも更に軽い処分になっている。
書いているだけで頭が痛くなってくる。
しかし、これが日本の法律で、俺たちはそのルールの中で今日も生きている。
そして司法はあくまでこのルールの範囲内において裁いているに過ぎない。
判決に思うところがあるからと言って、感情的に憤り、裁判官や検察官を中傷し、あまつさえ法廷の場に乗り込んだり、罷免させるための活動をするようなことはやるべきではないと思う。
俺が今日ここに書いたことは、各メディアの報道を調べたらすぐに出てくるような内容ばかりだ。
司法の判決に憤る気持ちはわかる。でもさ、行動に起こす前に、Xのポストを拡散する前に、一旦落ち着いて手に持ったスマホでこの程度の事は調べてからにするべきだと思う。地裁の裁判官には国民審査による罷免制度は無い。なんてことも調べれば簡単に出てくる。
だから、まずは法を知ろう。
なぜなら、俺達は法治国家に生きているのだから。
この国はどんなルールの下で運用されていて、一つの事件に対してそのルールの範囲内で検察と弁護士がどう戦ったか、そして司法がどんな決断を下したか、最低限考える癖をつけるべきだと思う。
そして、法そのものに不満があるのであれば議題にすべきはそこであり、戦うならば法に対してだ。
法律は生き物で、俺達の知らないところで日々変化を続けている。
今日も数多の法が議論され、改正され、増えて、減っている。
1973年の尊属殺人事件を発端にして、その後、尊属殺人の量刑を定めた旧刑法200条が違憲であるとして条文削除にまで至ったことだってある。
俺自身、今回の事件で、ほぼ同じような状況でありながら財産を奪ったタイミングの違いで旭川事件は強盗致死の要件を満たさないこと、これほどの罪を犯した人間が16歳という理由で少年法に守られ若くして社会復帰が可能であること等に対しては大いに納得できないところがある。
だったら、俺にできることはその法が成立している理由を調べて、それでも納得いかないのならば法そのものに対して声を上げていくことだろう。
ただ、俺は弱く、自分勝手な人間なので、日々の営みの中でそんな活動をする勇気も余力も残っていない。
そんな矛盾の中で、今日も生きて、ただこれを書いている。なにもできないけれど。
俺自身、この事件に対する自分の感情や行動の正解は出ていない。
しかし出ていない以上は安易な行動だけは避けるべきだと思うんよ。
法に限らず全ての物事は、俺達の目に届くのはいつだって海底に積みあがった氷の山の、その頂点に過ぎないのだから。
手放しの賞賛はまだしも、手放しの批判はすべきでない。
でも、気持ちもわかるんだよ。みんなのさ。強い感情に突き動かされたくなるよ誰だって。人だからさ、俺たちは。
むずかしいね。




