ベルフェゴール
「……もう無理。」
カウンターに鞄を放り投げた。
「辞めたい。」
「今日で何回目?」
「数えてるの?」
「いや。興味ない。」
グラスを拭きながら、マスターは笑いもしない。
慰めない。
励まさない。
「私ね、頑張ってるんだよ。」
「知ってる。」
「でも全然足りない。」
「そう。」
「もっと何か言ってよ。」
マスターは少しだけ考えて、言った。
「パシってみるか?」
「……は?」
「クリームパン買って来いよ。」
彼女は目を丸くした。
「何それ。」
「食いたくなった。」
「自分で行けば?」
「俺、今いい感じに怠けてる。」
沈黙。
「最低。」
そう言いながら彼女は財布を掴み、店を出た。
十五分後。
「ほら。」
ファミマの袋がカウンターに置かれる。
「ありがとう。」
マスターは袋からクリームパンを取り出し、厨房の平窯オーブンへ入れた。
少しだけ。
表面がきつね色になる手前。
甘い香りが静かに立ちのぼる。
取り出して、ギザギザ包丁で半分に切る。
「ほら。」
「半分?」
「一個は多い。」
「……最初からそう言えばいいじゃん。」
「それじゃ、お前は買いに行かなかった。」
笑いそうになって、慌てて口を押さえた。
さっきまで泣きそうだった顔が、少し崩れる。
二人は黙ってクリームパンを食べた。
温められたクリームは少しだけ柔らかくなっていて、甘さがゆっくり広がる。
「おいしい。」
「そうか。」
「……なんでクリームパンだったの?」
マスターは肩をすくめる。
「知らん。」
本当に知らないのだろう。
彼は人を救う方法なんて持っていない。
悩みを分析する気もない。
正しい言葉を探すほど勤勉でもない。
ただ、深刻になりすぎた夜を、少しだけ別の方向へずらす。
それだけだ。
彼女は最後のひと口を飲み込んで言った。
「また来てもいい?」
空になった皿を流しへ運びながら答える。
「潰れてなかったらな。」
木屋町の窓の外では、高瀬川が何事もなかったように流れている。
人生は案外、温めたクリームパン半分くらいで、もう少しだけ続けてもいいと思える夜がある。




