アスモデウス
「姐さん、今日飲みません?」
軽い言い方だった。
でも、中身は軽くない。
この子は好意を隠さない。
だから危うい。
「今日はいいや。」
理由は言わない。
ここで応じれば、何かが動く。
連休前の夜は、街全体が背中を押してくる。
誰も止めない。
けれど、それをすれば関係の形が変わる。
今の角度は戻らない。
彼がこちらを見る。
その視線は嫌いじゃない。
むしろ好きだ。
だから壊さない。
信号が変わる。
私は一歩だけ前へ出る。
そして、いつもの距離へ戻す。
選んで戻す。
「残念っす。」
彼は笑う。
その笑顔はまだ崩れていない。
「また今度ね。」
未来だけ残して、約束はしない。
それでいい。
夜は甘い。
人を雑にする空気がある。
私はそれに乗らない。
「姐さん、ブレないっすよね。」
「そう?」
前だけを見る。
かわいいという気持ちは消さない。
ただ、それを使わない。
「帰るよ。」
そう言うと、彼は頷き、少し後ろを歩き始める。
その足音を、私はちゃんと聞いている。
木屋町まで来ると、人はもっと笑っていた。
提灯。
ネオン。
笑い声。
グラスの音。
恋人たち。
連休前の京都は、誰かを好きになるためにできているみたいだった。
私は歩く。
歩くだけだ。
それで終わるはずだった。
「なあ。」
誰かが笑った。
振り向いても誰もいない。
「で、誰が幸せになった?」
木屋町の夜が話しかける。
道化師の私。
悪魔より始末が悪い。
「会社?」
「君?」
「あの仔犬?」
答えられない。
私は誰との約束を守るために、
あの仔犬を蹴り飛ばしたのか。
仕事のため?
立場のため?
明日のため?
本当に?
胸の奥で、何かが小さく軋む。
触れなかった。
正しかった。
そのはずなのに。
勝ったはずなのに。
どうしてこんなに痛いんだろう。
木屋町のネオンが川面で揺れている。
悪魔は耳元では囁かない。
いつだって、自分の声で話しかけてくる。
「今日くらい、いいじゃない。」
私は立ち止まらない。
歩く。
歩き続ける。
でも、その夜だけは思った。
これじゃ、台無しじゃない。




