リバイアサン
コンチキチン。
四条から溢れた人波が、新京極へ流れ込んでくる。
祇園祭が始まると、京都は少しだけ壊れる。
信号は青でも進めない。
予約どおりに店へ着けない。
人は理由もなく立ち止まり、鉾を見上げ、知らない誰かと笑っている。
私は、この季節が苦手だった。
理由のない行動は理解できない。
理解できないものは、仕事の邪魔になる。
だから毎年、この時期だけ三十分早く家を出る。
それで全部、予定どおりだった。
ホテルの宴会予約課。
私の仕事は、人が集まる時間を間違えないことだった。
人数。
会場。
料理。
音響。
看板。
一つでも狂えば、宴会は失敗する。
だから私は、狂わない。
狂わせない。
そういう人間だった。
午後三時四十分。
胸が苦しくなった。
心拍数は百十。
体温三十六・五度。
昼食は済ませた。
カフェインなし。
異常なし。
異常なし。
異常なし。
「……失礼します。」
初めて、自分から早退を申し出た。
会社を出ても治らなかった。
コンチキチン。
祭囃子だけが追いかけてくる。
新京極へ流される人波を避けながら歩いていると、スマートフォンが震えた。
同期からだった。
「見て(笑)さっきの主任」
写真が一枚。
営業部の彼だった。
見たことのない笑い方をしていた。
隣には女性。
製薬会社の広報担当。
先週、医学会の懇親会で来館していた人だった。
私は写真を拡大した。
名札を見る。
ジャケットを見る。
髪を見る。
指輪はしていない。
また拡大する。
何を探しているのか分からなかった。
分からないまま、画面を閉じた。
河原町佛光寺。
部屋に帰る。
靴を脱ぐ。
冷蔵庫を開ける。
飲みかけだった白ワインをグラスに注ぐ。
一口飲む。
酸っぱくなってる。
冷蔵庫を閉める。
また開ける。
何か忘れている気がした。
何も忘れていなかった。
ソファに座る。
立ち上がる。
また座る。
コンチキチン。
窓の外から祭囃子が届く。
パソコンを開いた。
『胸が苦しい 病気』
違う。
『動悸 原因』
違う。
『理由なく苦しい』
違う。
長い間、キーボードに手を置いたまま動けなかった。
私はもう一度だけ入力した。
『嫉妬とは』
検索結果はすぐに表示された。
私は十分ほど画面を見つめていた。
一文字も頭に入らなかった。
その代わり、
彼女の笑顔だけが、
何度も、
何度も浮かんだ。
「感じのいい人ですよ。」
宴会の日。
そう言っていたサービススタッフの言葉を思い出す。
そうだ。
感じのいい人だった。
だから、
こんなに苦しいのか。
コンチキチン。
祭囃子は夜更けまで鳴り続けた。
私は窓を閉めた。
音は少しだけ小さくなった。
胸の奥の音は、
少しも小さくならなかった。




