黄色い老犬
名古屋から流れてきた爺さんが、いつの間にかこの界隈に馴染んでいた。
背は低く、ヤニで黄色く煤けた帽子をいつもかぶっていて、着古した服を着ていたが、笑みはやわらかく、人の心を解かす力があった。
彼は気さくで、誰にでも声をかけた。
八百屋の荷物を運び、菓子屋の箱を片づけ、子供に飴を配り、夕暮れには酒場の片隅に座り込んで一杯を長く楽しんだ。
あの人が立ち去ったあとには、なぜか温かいものが残る。
誰もが彼を「爺さん」と呼んだ。
私もいつしかその輪の中に加わり、爺さんのいる光景が当たり前のようになっていた。
ある日、五条大橋のたもとで騒ぎがあった。
子供がふざけて欄干に登り、川へ落ちたのだ。
人々が悲鳴をあげるより先に、爺さんは迷いなく飛び込んでいた。
濁った水をかき分け、子供の腕を掴み、力強く引き上げる。
橋の上にいた私たちは、その背中をはっきり見た。
水に濡れたシャツの下から、軍荼利明王が背一面に立ち上がっていた。
炎を背負うその姿は、誰の目にも鮮烈だった。
だが、誰も口にしなかった。
「見ないふり」をすることが、この街のやり方だった。
せがれの親父は「助けてくれてありがとう」とだけ言い、母親は涙を拭きながら爺さんに頭を下げた。
私も何も言わなかった。
あの刺青が何を意味するかなど、想像することさえ避けた。
それからも爺さんは、変わらずここにいた。
朝は掃除を手伝い、昼は誰かに声をかけ、夕暮れには酒屋の主人に肩を叩かれた。
子供たちは駆け寄って「爺さん、おかえり」と言った。
背中の明王を知っていながら、誰も触れなかった。
その沈黙の中で、爺さんは街の一部になっていた。
彼がいるだけで、日常が少し穏やかになる。
黄色い老犬のように、そこにいるのが自然で、誰もがそれを受け入れていた。
しかしある日、名古屋から数人のチンピラがやってきた。
爺さんを探している、と。
鋭い目つきで店先をのぞき、通りを歩く人間に声をかける。
空気が重くなった。
だが、街の人々は口を揃えて「知らない」と答えた。
菓子屋の婆さんも、魚屋も、八百屋の親父も、子供たちまでも。
皆が爺さんを庇おうとした。
けれど私は、心の奥に恐怖を抱いていた。
もし彼らが暴れれば、この商店街が壊される。
瓦屋根も、古い看板も、灯りに集う子供たちの笑い声さえも。
爺さん一人を庇えば、この街全体が犠牲になるかもしれない。
「爺さんが好きだ」という気持ちと、「街を守らねば」という気持ちがせめぎ合い、私は立ち尽くした。
やがて私は、小さな声で告げていた。
「……あの人なら、あそこに」
チンピラに連れられて商店街を去る時、爺さんは振り返った。
視線が合った。
爺さんは笑っていた。
その眼差しは責めるでもなく、哀しむでもなく、ただ静かに受け入れるものだった。
私の胸は裂けるように痛んだ。
爺さんは歩いていった。
荷物を背負い、軍荼利明王の炎を背に刻んだまま、ゆっくりと。
誰も声をかけなかった。
誰も止めなかった。
それが、この街を守るための「群れの選択」だったのだ。
けれど今も、あの爺さんの笑みが焼きついている。
私は街を守ったのか、それとも自分を守っただけなのか。
答えは出ない。
ただ胸の奥で、黄色い老犬の影が消えないまま、今も息づいている。
それは誇りか、後悔か。
その区別さえ、もはやできない。




