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冷たい箱

北の風が冷たい。

葦が擦れ合う音の向こうに、比良の峰が霞んでいる。

風裏を探して立ち位置を決めた。

ロッドはミディアム、ラインはフロロの8lb。

スピナーベイトを投げて、

水の抵抗を指先で感じながらリトリーブ。

手の中でブレードが震える。

この感覚、まだ忘れてなかったな。


一瞬、重みが止まった。

「来た。」

反射でスイープに合わせる。

ロッドがしなり、ドラグが短く鳴く。

銀色の魚影が跳ねる。

足もとで水がはねて、光が砕けた。


四十センチちょっと。

秋のバスだ。

太くて、きれいで、

まるでこの湖の体温をそのまま閉じ込めたみたいな魚。

唇が分厚くて、目が澄んでる。

プライヤーでフックを外すとき、

指先をこすった鱗のざらつきが、

俺の肌より生きてる気がした。


……こいつらは賢い。

ルアーを見切る。

風向きと水温で、すぐに居場所を変える。

人間が想像するより、

ずっとこの湖を理解してる。

春になれば産卵床を守って、

夏は日陰に潜んで、

秋になったらまたこうして餌を追う。

生きることに迷いがない。


俺はずっと、この魚に憧れてた。

バスを釣るってのは、

単に釣果じゃなくて、

こいつらと会話してるみたいなもんだった。

一匹一匹に性格があって、

水の中に、確かに意思があった。


……なのに。


今は、あの看板がある。

「リリース禁止」。

そして、この青い鉄の箱。

外来魚回収ボックス。


魚を持ったまま、動けない。

風が頬を冷やしていく。

手の中で、まだ息をしてる。

ひれが小さく震える。

目が俺を見ている気がする。

どうすればいい。


悪いのは、お前じゃないんだ。

俺たちのほうだ。

勝手に持ち込んで、勝手に流行らせて、

今度は“悪者”にした。

バスが何かを壊したんじゃない。

俺たちが、居場所を壊したんだ。


回収ボックスの蓋を開ける。

冷たい金属の匂い。

中から、湿った臭いが返ってくる。

静かに手を離した。

魚が沈んでいく。

金属の音が短く響いて、すぐに消えた。


風が止んだ。

葦が揺れて、波が岸を洗う。

遠くで子どもの笑い声がする。

湖は何も言わない。

ただ、いつも通り、

水を動かし、風を受けて、

この世界をまわしている。


俺はロッドを畳んで、湖に一礼した。

悪いのは、お前じゃない。

賢くて、強くて、

ただ生きようとしてるだけの生き物だ。


夕日が沈む。

空がオレンジから群青に変わっていく。

回収ボックスの角が光って、

それがまるで、湖の涙のように見えた。

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