ディキャピティティッド
胸騒ぎがしていた。
こういうのは当たる。
長く母親をやっていると、なんとなくわかる。
電話の回数が減る。
声が少し乾く。
大丈夫、と言う回数が増える。
だいたい、そのあとに壊れる。
玄関の前に立っているのを見たとき、ああ、と思った。
やっぱりな、と思ったし、少しだけほっとした。
帰ってきた。
それがまず、ひとつ。
それから、少し腹が立った。
やっぱり帰ってくるんや、と思った。
人は、行き場がなくなると戻ってくる。
そういうふうに育てたつもりやから、間違ってはいない。
でも、それでも、腹は立つ。
「……ほんまに帰ってくるん?」
閉じたドア越しに聞いた。
すぐには開けなかった。
開けたら、そのまま全部受け入れることになるから。
「うん。少しだけ。落ち着くまで」
少しだけ、は嘘やと思った。
でも、それを責めても意味がない。
孫娘ももいる。
あの子に罪はない。
でも、だからといって、何もなかったみたいに迎え入れるのは違うと思った。
私はちゃんとやってきた。
少なくとも、そう思っている。
働いて、食べさせて、学校に行かせて、
間違えないように、何度も言ってきた。
あの子が選んだことだ。
専門学校を勝手に辞めたのも、
あの人から紹介してもらった会社を辞めたのも、
あの男も、あの結婚も。
だから、ここで一度、形をつけさせないといけないと思った。
「条件あるで」
言ってから、少しだけ息を整える。
「ちゃんと反省してるって、形で見せて」
言葉にすると、少し冷たく聞こえる。
でも、必要なことやと思った。
あの子は、形がないとわからない。
「土下座くらいできるやろ」
軽く言ったつもりだった。
重くすると、壊れるから。
本当は、そこまでしたいわけじゃない。
でも、それくらいのことをしてでも戻りたいんや、って確認したかった。
それだけ。
あの子が後ろを振り返る。
孫がいる。
小さい手で、服を握っている。
一瞬だけ、迷った。
でも、目は逸らさなかった。
ここで甘くしたら、全部同じになる。
あの子が膝をつく。
思っていたより、ゆっくりだった。
ちゃんと覚えている。
膝のつき方。
手の置き方。
体の折り方。
ぎこちない。
ああ、この子はこういうことをしてこなかったんやな、と思った。
私はしてきた。
何度も、何度も、何度も。
この子のために。
そうやって生きてきた。
額を地面につけた。
長い。
思っていたより、長い。
孫の声がする。
「ママ、なにしてるの?」
その声で、一瞬だけ視線が揺れる。
でも、逸らさなかった。
ここで終わらせたら、あの子はまた同じことをする。
そう思った。
ドアを開ける。
「入ってええよ」
それだけ言った。
十分やと思った。
家に入ると、少しだけ空気が変わる。
人が増えると、音も増える。
テレビ。
冷蔵庫。
足音。
あの子は静かだった。
必要以上に。
それが少し気になった。
孫はすぐに慣れた。
子どもは強い。
畳で寝転んで、笑っている。
耳塚公園の青いカバの遊具が好きらしい。
明日も連れていこうと思った。
私はできることをする。
ご飯を作る。
洗濯をする。
「大変やったね」と言う。
それが愛情やと思っている。
間違っているとは思っていない。
「ほんま、あんたは男見る目ないなあ」
軽く言う。
責めているわけじゃない。
事実やと思う。
でも、あの子は笑うだけ。
何も言わない。
それが少し、腹立たしい。
言い返してきたらいいのに、と思う。
そうしたら、ちゃんと話ができるのに。
「今度さ、背割堤行かへん?」
ふと思いついて言った。
桜の時期やし、気分も変わるかもしれん。
昔は、よく出かけた。
あの子も、ちゃんと笑っていた。
「……いいよ」
あっさり言った。
少し拍子抜けする。
もっと嫌がるかと思った。
でも、来ると言うなら、それでいい。
当日、天気は良かった。
こういう日は、それだけで少し救われる。
助手席で、いろいろ話す。
沈黙が続くのは苦手やから。
「やっぱり桜の時期はええねえ」
まだ見えていなくても、言う。
そういうものやと思っている。
「晴れてくれてよかったわ」
あの子は、短く返すだけ。
昔からそうやった。
必要以上に喋らない。
「やっぱり家族ってええね」
ぽろっと出た。
本心やと思う。
桜は綺麗だった。
背割堤は広大で、景色の奪い合いが起きない。
孫が走る。
笑う。
それを見ると、少しだけ報われる。
ここまでやってきてよかったと思う。
少なくとも、間違いじゃなかったと思いたい。
ベンチで、少し落ち着く。
孫は離れて遊んでいる。
「……これからどうするん」
聞かずにはいられない。
心配やから。
「なんとかする」
それでは足りないと思う。
「再婚とかは?」
少しでも、ちゃんとした形に戻ってほしい。
「無理やと思う」
「なんで?」
「愛し方、わからんし」
その言葉に、少しだけ詰まる。
それは、私のせいかもしれないと思った。
「……ごめんね」
口に出る。
でも、それ以上は言えない。
どう謝ればいいのか、わからない。
何が間違っていたのかも、はっきりしない。
「別に、お母さんのせいちゃうし」
そう言われると、少しだけ安心する。
同時に、少しだけ寂しい。
本当は、責めてほしいのかもしれない。
風が吹く。
花びらが落ちる。
肩に一枚つく。
取ってもらえない。
気づかないふりをされている気がした。
たぶん私は、この子のために生きてきた。
そう思っている。
でもこの子は、この子で、私のために生きてきたと思っているのかもしれない。
どちらも正しい気がするし、
どちらも間違っている気もする。
「来年は、ひとりで来たら」
そう言われる。
胸が痛む。
でも、引き止める言葉が出てこない。
出してはいけない気もする。
この子を手放したら、私は空っぽになる気がする。
でも、このままでも、どこかが削れていく。
やり方は変えられない。
変え方もわからない。
だからたぶん、これからも同じことを繰り返す。
与えて、縛って、
守って、削って、
食べて、残して、
そうやってしか、愛せない。
私たちはきっと、
噛み合ったまま、離れられない。




