共喰い
節分に離婚した。
理由は説明できる。
何度も説明したし、たぶん正しい。
でも正しさって、生活の中ではあんまり役に立たない。
段ボール三つと、子どもひとり。
それで私は、実家の前に立っていた。
チャイムを押す前に、少しだけ息を整えた。
整えないと、何かがこぼれそうだった。
ドアの向こうで足音がして、止まる。
すぐには開かない。
「……ほんまに帰ってくるん?」
母の声は低かった。
怒る前の、あの声。
「うん。少しだけ。落ち着くまで」
沈黙。
ドア一枚で、世界が分かれている感じ。
「条件あるで」
鍵が回る前に言われる。
「ちゃんと反省してるって、形で見せや」
形。
意味じゃなくて、見えるやつ。
「……どうしたらいい?」
「土下座くらいできるやろ」
軽い声だった。
買い物を頼むみたいな言い方。
私は一度だけ、後ろを見る。
娘が立っている。
私の服の裾を握っている。
何もわかっていない顔で、ただ見ている。
逃げる選択肢はなかった。
膝をつく。
コンクリートが固い。
思っていたより、ずっと固い。
スカート越しに、じかに骨に当たる感じがする。
体重が乗ると、じわじわ痛みが広がる。
手をつく。
掌に、細かい砂のざらつきが刺さる。
そのまま、上半身を折る。
腰が引っかかる。
うまく曲がらない。
でも押し込む。
額を地面につける。
冷たい。
でも、少し湿っている。
乾ききらない冷たさ。
鼻が潰れる。
息がうまく吸えない。
コンクリートの匂いが近い。
「……お願いします」
声が、地面に吸われる。
一秒。
二秒。
もっと長いかもしれない。
娘が小さく言う。
「ママ、なにしてるの?」
その声で、少しだけ現実に戻る。
でも顔は上げない。
上げたら終わる気がした。
母はすぐには何も言わない。
見ている気配だけがある。
やっとドアが開く。
「入ってええよ」
それだけだった。
立ち上がると、膝が少し震えた。
スカートに、薄く汚れがついていた。
娘が私の手を握る。
いつもより少し強い。
家の中の音が、やけに大きい。
引き戸。
テレビ。
冷蔵庫。
母のため息。
全部、近い。
娘はすぐに慣れた。
畳に寝転んで、テレビを見て笑う。
耳塚公園の青いカバに乗るのがお気に入りだ。
母は優しい。
ちゃんと優しい。
ご飯も出るし、洗濯もしてくれるし、
「大変やったね」って何度も言う。
でもその優しさは、少し重い。
「ほんま、あんたは男見る目ないなあ」
軽く言う。
軽いから、逃げられない。
私は笑う。
笑って流す。
流すたびに、何かが削れる。
「今度さ、背割堤行かへん?」
母が言う。
「桜、ちょうどやって。レンタカー借りて」
行きたくない、と思う。
綺麗なものを、母と並んで見たくない。
綺麗だねって言う役をやりたくない。
でも断ると、母が可哀想だった。
「……いいよ」
言ってしまう。
母は嬉しそうに笑う。
当日、天気は良すぎた。
母は助手席で喋り続ける。
まだ何も見ていないのに「やっぱり桜の時期はええねえ」と言う。
私は前だけを見る。
ハンドル。
信号。
前の車。
それ以外を見ると、崩れる。
「晴れてくれてよかったわ」
息が少し詰まる。
「……うん」
それしか出ない。
「やっぱり家族ってええね」
静かに刺さる。
桜は綺麗だった。
ちゃんと綺麗で、逃げ場がなかった。
娘が走る。
母が笑う。
いい日みたいだった。
ベンチで、少しだけ静かになる。
娘は少し離れたところで遊んでいる。
「……これからどうするん」
母が言う。
「なんとかする」
「再婚とかは?」
「無理やと思う」
「なんで?」
少しだけ考える。
「愛し方、わからんし」
母は黙る。
それから言う。
「……ごめんね」
揺れる。
許したいのか、責めたいのか、わからない。
「別に、お母さんのせいちゃうし」
また庇う。
風が吹く。
花びらが落ちる。
母の肩に一枚つく。
取らない。
たぶん私たちは、ちゃんと愛している。
でもそのやり方が、少し違う。
相手を楽にするためじゃなくて、
自分が崩れないために使う愛。
食べて、食べられて、形を保つ。
「ねえ、お母さん」
「ん?」
「来年は、ひとりで来たら」
母が見る。
傷ついた顔。
沈黙。
背割りの桜は勝手に綺麗だった。
私たちとは関係なく。
私たちは、愛し方がわからないまま、
喰い合って、
消えてしまいたいんだ。




