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歓喜天

結局娘は名古屋に行った。


吉田山の濃い緑は、もう見に行っていない。

白川疎水の水音も、思い出さなければ聞こえない。

代わりに、自由な足は南へ下る。

三条を越えて、木屋町通り。


初春。

風はまだ冷たいのに、服だけが先に季節を変えている。


スプリングコート。

軽い。

こんなに軽かったのかと、歩きながら思う。


誰も手を引いていない。

引かれてもいない。

それだけのことなのに、

歩幅が少し変わる。



高島屋の化粧品売り場は、いつも通り明るい。

 

光が強くて、顔の輪郭が曖昧になる。

今朝リップを一本、捨てた。

古い色。

引き出しの奥にあったやつ。


――取り出したら負け、と思っていたもの。

カウンターの女の子が、

「こちら、今季の新色です」と言う。

指先で試す。

少しだけ、血の気が戻る色。

鏡を見る。

まぶたに指をあてる。

笑い方を、ほんの少しだけ変えてみる。

――誰に見せるわけでもないのに。

「お似合いです」

そう言われて、うなずく。

理由は聞かない。

理由なんて、どうでもいい。


それをそのまま、つけて出る。

木屋町通りの川沿いは、少し湿っている。

昼と夜のあいだ。

店はまだ半分しか開いていない。


暖簾をくぐる。

知らない店。

知らない席。


知らない私になったみたい。



小鉢が先にがひとつ、置かれる。

「初めて?」

「はい」

恐いけど、それだけでいい。


隣に座った男は、

物流センターの部長だと言った。

よく分からないけど、

ちゃんとしている人だった。

声が低くて、

ゆっくり話す。

こちらの話を、途中で遮らない。

それだけで、十分だった。

何を話したかは、あまり覚えていない。

天気とか、仕事とか、

どうでもいいことばかり。

でも、

どうでもいいことが、

ちゃんと通じる。

それだけで、十分だった。

グラスの水滴が、指につく。

冷たい。

ふと、思う。


――あの子は、今なにをしているのだろう。

思うだけで、

それ以上は続かない。

祈りにもならない。

言葉にもならない。

ただ、通り過ぎる。

男が言う。


「また来る?」

「どうやろ」

少し考えてから、

「来るかもしれへんな」

と答える。

外に出ると、風が変わっている。

少しだけ、暖かい。

スプリングコートの裾が揺れる。

軽い。

オシャレってこんなに軽かったのかと、

もう一度思う。

川面に、灯りが揺れている。

形は定まらない。

それでも、消えない。

どこかで、何かが祈られている気がした。

けれど、それが何なのかは、分からない。

分からないまま、

歩く。

木屋町通りは、まだ夜になりきらない。

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