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子安観世音

吉田山の濃い緑が、白川疎水の対岸に重なってゆくと見えてくる、小さな祠。

春の残り香が風に舞い、夏の予感が足元をくすぐる。

「一緒に観音さま、行こか。お願いせなね、女の厄年やし」

娘は小さくうなずく。

拒まない。でも、目はもうどこか遠くを見る。

私は手を差し出す。

娘はそれを取る。

でも、その手にもう“預けられている”感触はない。


かつて私はその道を、娘の手を引いて歩いていた。

十五年前までは、抱いていた手。

十年前までは、振りほどかれることなどなかった手。

「おかん、しんどない?」

その一言すら、情けなく思えた。

身体が重いのではない。

手を引かれる側になったことが、息苦しいのだ。


娘は今、十九。

ふとした瞬間に、女の顔を見せるようになった。

鏡の前で、まぶたに指をあて、笑い方を変えてみる。

スマホの画面を、母には見せなくなった。

「そのコート、借りていい?」と聞くとき、声に“挑発と同意”の両方がある。


わたしにも、同じような時期があった。

そう、思う。

化粧台の引き出しの奥に、かつての自分のリップが眠っている。

だが――取り出せない。

取り出したら、“負け”になる気がする。



この観音さまは、子どもの成長の神様だ。

けれど今、私の心にあるのは祈りではない。

嫉妬でもない。

怒りでもない。

ただ――形のない支配欲だ。

――まだ世界を知らないで、まだ傷つかないで

―――そのためなら、少しぐらい、怖がらせたっていい


ふと、視線が重なる。

瞬間、娘は気まずそうに目をそらした。

―ああ、いまの顔

それは、かつて自分が母を見たときの、顔だった。

理解できない。

けれど、怒らせてはいけないと思わせる顔。


「おかん……なんか、最近こわいわ」

娘がぽつりと漏らした。

「ごめん、なんか、わからへんけど……ちょっとだけ」


私は、笑ってみせる。

「そうやろか?」と言った声が震えていた。


「おかんがいなくなったらどうしようって思うときが、なんとなくあるんよ」

その“なんとなく”が、私の胸に焼きついた。

―わたしは、もういらないのだろうか

――娘はこの先、自分だけの世界へ旅立ってしまうのだろうか

――だったら


その旅立ちの道の途中に、

「わたし」って名前の大きな石を置いてやりたい。

通ろうとすれば、転ぶぐらいの。

旅をあきらめて、泣きながら私へ引き返すぐらいの。



歩きながら、心の中でつぶやく。

――純粋な愛は、手段をえらばない。

それがどんなに正しい顔をしていても、

どんなに“母の想い”という名前を名乗っていても、

その内側にひそむのは――世界をねじ曲げてでも手放したくない欲望なのだ。

祠に、またひとつ、祈りが捧げられる。


「この子を、いつまでもわたしの子でいさせてください」

祠は答えない。

木々が揺れて、影が石段を這うだけだった。


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