ブリスケットナーベルエンドデックルオフ
アメリカ出張も三日目になると、
ホテルの部屋の空調の音までが自分を責めているように聞こえてくる。
昼間は工場視察とミーティング。
ミシガン、工場の街――誰が言い出したか「リベットタウン」と呼ばれているこの町には、
巨大なサイロと赤いレンガの建物が点々と並び、
夕方になると、どの屋根も同じようなオレンジ色に染まる。
そんな日の午後、
冴えない同僚のジェフが言った。
「今夜、実家でバーベキューやるんだ。よかったら来ない?」
ネクタイはいつも少し曲がっていて、会議では端っこでメモ係。
“控えめ”という言葉をそのまま人にしたような男だ。
ふだんなら断っていたかもしれない。
でも、その日だけは、なぜかうなずいた。
ジェフの家は工場地帯から少し離れた住宅街の奥にあった。
夕暮れの空は、まだ青の名残を少しだけ抱えながら、
西の方からじわじわと紫が押し寄せてきていた。
家々の軒先には星条旗がぶら下がり、
カーステレオの低いベースがどこかの庭から漏れてくる。
遠くで犬が吠え、
近くの線路の向こうでは、さっきまで鉄を打っていた工場の熱気が、
ゆっくりと沈黙に戻っていくところだった。
ジェフの家の裏庭に出た瞬間、
まず鼻を打ったのは、
炭の匂いではなく、木が燃える甘い煙の匂いだった。
そこにいた。
大きな黒いスモーカーの前に、
腕組みをして立つ男――デイビッド。
ジェフの父親だ。
メガデスのタンクトップに、くたびれたジーンズ。
日焼けした肩。
顔の皺には、笑いよりも仕事の時間が刻まれているようだったが、
目だけは若々しい光を残していた。
野生のピットマスターだ。
実在するんだ。
スモーカーの蓋の隙間から、
薄茶色の煙がゆっくりと立ち上る。
煙は、夕暮れの空の紫に溶けていき、
気づけば庭全体が、
「何かおいしいものがこれから始まる前の匂い」で満たされていた。
芝生の上には折り畳みのチェア。
テーブルにはプラスチックのコップと、
スーパーで買ったであろうコールスロー。
ホットドッグ用のバンズが袋ごと積まれている。
その端で、二人の姉妹がスマホをいじっていた。
黒いアイラインをきつく引き、
唇は真紅か濃い紫。
Tシャツには知らないメタルバンドのロゴ。
いかにも“ゴス系”な彼女たちは、
こちらを見もせず、
画面の中だけを相手にしていた。
やがて、デイビッドがスモーカーの蓋に手をかけた。
その手つきは、
どこか舞台の幕を開ける演出家のようでもあった。
ゆっくりと蓋が開く。
ぶわっと、甘くて濃い煙が外気に溢れ出る。
その奥から現れたのは、
照明いらずの光沢をまとったベイビーバックリブだった。
表面は黒蜜のような深い色をしている。
脂の筋が、柔らかく溶け出す寸前で止まっていて、
触れれば崩れそうなのに、かろうじて骨にとどまっている。
「Dad!! Oh my god, Dad!! 」
さっきまでスマホに噛りついていたゴス姉妹が、
同時に顔を上げた。
スマホを放り出し、
煙の中の父に駆け寄っていく。
Cool!
その声には、
からかい半分、
本気の尊敬半分が混ざっていた。
デイビッドは照れたように鼻を鳴らし、
作業台にリブを移すと、
無骨なナイフを手に取った。
ナイフの刃が、
リブの表面をなぞる。
軽く押すだけで、脂がふるふると揺れる。
骨と骨の間を見極め、
一気に切り分ける。
ザクッ。
その音と同時に、
肉から透明に近い肉汁がじわりとにじみ出す。
夕日と庭のオレンジの照明がそれを照らし、
一瞬だけ、リブは宝石めいた輝きを帯びた。
その光景を見ていたときだ。
胸の奥の、ずっと深いところで、
何かが“カチッ”と音を立てた。
――あぁ、知っている。
この風景を、私は知っている。
その瞬間、視界の端で蛍が光った。
芝生の向こう、木陰のあたり。
小さな光がふっと灯り、
すぐに消える。
また少し離れたところで、
別の光がまた瞬く。
まるで、
音もない合唱が光で鳴いているみたいだった。
蛍たちが光でリズムを刻む頃、
私は、河の音を思い出していた。
宇治川の土手は、
夕暮れになると、
風の向きで匂いが変わる。
水門の方からは少し草っぽい匂い。
田んぼの方からは、湿った土と藻の匂い。
そして川そのものからは、淡い泥の香りがした。
あの日も、父さんと並んで釣りをしていた。
吸込み針を仕掛け、
安物の椅子に腰掛けて、
竿先に視線を固定する。
川面には、
中途半端な都会の光が、
未練がましく映っていた。
「来ないねえ」
私が言うと、父さんは
「まあ、そのうちだ」
とだけ答えた。
しばらくして、
竿先が、ほんのわずかに震えた。
風かもしれない。
流れかもしれない。
でも、その次の瞬間、
竿がぐっと弧を描いた。
「きたぞ」
父さんの声は低く、しかし確かだった。
持ち帰った鯉は大きく、
母さんは困った顔をしていた。
海街育ちの彼女には、川魚の泥っぽさがどうにも馴染まない。
それでも、台所には出刃が並べられ、
まな板の上に鯉がのせられた。
父さんが鱗を剥ぎ始める。
ガリッ、ガリッ。
硬い鱗がシンクの中へ飛び散る。
その音は、
利根川の流れよりも、ずっと近くて、
ずっと生々しかった。
次に、出刃が入る。
ゴリッ、ゴリリッ。
骨に当たる鈍い抵抗。
刃を滑らせるときの、
手首に伝わる振動。
あれが、私の休日の音だった。
母さんは鯉揚げのあんかけを作った。
しょうがと黒酢の匂いが油の香りと混ざり、
台所を満たしていく。
母さんと妹は、その料理があまり好きではなかった。
皿の上の大きな切り身を前に、
ふたりとも箸が止まりがちになる。
それでも、
私と父さんは、
「うまい!」
「おう、うまい」
と繰り返しながら食べた。
自分たちの手で釣って、
父さんがさばいて、
母さんが作ってくれた魚だ。
うまくないはずがない。
揚げた鯉の身を箸で割るとき、
衣の薄い“サクッ”という音の向こうから、
利根川の水音が、
微かに聞こえる気がした。
デイビッドが切り分けたリブが、
紙皿の上に山のように盛られた。
ひとつ手に取る。
指先に、スモークの熱と脂の粘りが絡みつく。
かじると、
焦げ目のところが軽く抵抗を見せ、
すぐにほどけるように崩れた。
甘い。
しょっぱい。
スモークの香りが、
鼻から抜けていく。
とてもおいしかった。
でもそれ以上に、
胸の奥がじん、と熱くなった。
リブの煙の向こうに、
私は確かに利根川の川霧を見ていた。
デイビッドの背中には、
出刃を握る父さんの姿が重なっていた。
火を扱う父親の背中は、
世界のどこでも、
同じようにかっこいいのだと知った。
リベットタウンの夕暮れ、
蛍が光で鳴きはじめる頃。
私はスモークの煙の中で、
故郷の河口に立ち尽くしていた。
利根川は海へ向かい、
犬吠埼のあたりで汽水になり、
朝日を受けながら、
静かに海へ溶けていく。
父さんもまた、
痛みから解き放たれ、
どこか大きな流れに溶けていったのだろう。
デイビッドが最後のリブを切り分ける。
娘たちがまた叫ぶ。
「ダディクール!」
私は紙皿を持ったまま、
心の中でそっと呟いた。
――うちの父さんも、
ダディクールだったよ。
煙は、ゆっくりと空に消えていった。
蛍の光が、低い熱で燃え続けていた。




