再誕
天人五衰
あの頃の私は、あまりに清らかで、あまりに退屈だった。
花の香は永遠に変わらず、衣は塵一つ付かぬ。
息をしても、息をしなくとも、世界は均質の光に満ちていた。
光の中で眠り、光の中で目覚め、光の中で笑い続ける──。
それが幸福と呼ばれていた。
だが私の胸の底では、いつからか、名も知らぬ陰りが蠢き始めていたのだ。
或る朝、庭の花がわずかに萎れていた。
花弁の縁が、かすかに黄ばんでいた。
その色を見たとき、私は思わず微笑んだ。
ああ、これは終わりの色だ、と。
完璧な世界に、ついに腐の音が忍び込んだ。
私はその腐香を、甘い香水のように胸いっぱいに吸い込んだ。
──それが、堕落の始まりだった。
ほどなく衣に汗が滲んだ。
腋の下を伝う塩のぬめりを、私は夢中で指先にすくい、舐めた。
それは懐かしい味がした。
どこかで、こんな味を知っていた気がする。
遠い、もっと湿った世界。
愛と痛みがまだ分かたれていなかった頃。
思えば、天人であるということは、
この“湿り”を失うことだったのだろう。
やがて私は、光の国から零れ落ちた。
天は私を拒まず、ただ静かに背を押した。
長い墜落ののち、私はひとつの体に宿った。
小さく、血のにおいに満ちた世界。
母の腕の中で、息を吸った瞬間、
私は悟った──また、生まれたのだと。
母の眼差しは、どこか懐かしかった。
その奥に、私の知らぬ記憶が燃えていた。
かつて私は母胎で彼女を愛し、流され、そして憎んだ。
そのすべての果てに、いま、私は娘として生まれた。
母は優しく私を抱く。
あの高天の清光よりも、この腕の温もりのほうが広い。
彼女の胸の鼓動が私の心臓と重なり、
二つの血潮がゆっくりと同じ拍子を打つ。
──落下する魂が律動する。
日々が過ぎ、私はこの世界の重みに慣れていった。
土のにおい、夕餉の焦げる匂い、母の髪に残る石鹸の甘さ。
すべてが、あの無臭の天界よりも濃厚で、淫らに生きている。
母はときどき私を見つめ、涙をこぼす。
何も語らぬその涙に、私は見覚えがあった。
天上で、別れのとき、私が流せなかった涙の続き。
ああ、もう少しで全部忘れてしまう。
ある夜、彼女は寝言で私の名を呼んだ。
私はそっとその頬に触れ、唇を寄せた。
温かかった。
そして、少し塩の味がした。
それは汗か、涙か、あるいはその両方か。
けれどその味は、あの日、天で初めて舐めた汗の味と同じだった。
私は胸の中で呟いた。
――今度は仲良く、愛するように。
天人五衰の最後の徴は、光の消滅だという。
だが私にとって、それは罰ではなかった。
光が消えることで、ようやく影が生まれたのだ。
影のある顔は、なんと美しいのだろう。
母が微笑むたび、頬に走る陰影が、私を恍惚とさせる。
それは、天のどんな光よりも、真実に近かった。
私はもう天には還らない。
光の静止よりも、影の鼓動を愛する。
無垢の終わりに滲んだ汗こそ、
この地上における祝福の雨なのだ。
それが乾く前に、私はこの腕の温もりを抱きしめておきたい。
落下とは、堕落ではない。
それは、再び生き始めることだ。
私はまた生まれた。
私の母、また彼女だった。
今度は仲良く、愛するように。




