ディレイ
下鴨本通は、夕方が少しだけ早い。
糺の森の木が深すぎるせいだ。
梅雨入り前。
雲は白いのに、
道路だけが先に夜へ沈み始めている。
私はコンビニの袋をぶら下げて歩いていた。
プリンが三つ。
全部、
同じやつ。
昔から母が好きだった、
安いやつだ。
高いやつじゃない。
ガラス瓶のやつでもない。
百円ちょっとの、
柔らかすぎるやつ。
信号待ちで、
袋の中が揺れる。
スマホが震える。
無視する。
仕事のLINEだ。
療養復帰した同僚の、
シフト相談。
知らない。
今日はもう知らない。
鴨川デルタの近くまで来ると、
少し風が冷たくなる。
学生が座っている。
外国人。
カップル。
コンビニ酒。
みんな、
夏の入口を楽しんでいる顔をしている。
私は橋を渡って、
アパートへ戻った。
二階。
築年数不明。
妙に天井が低い。
西日の熱がこもっている。
テーブルの隅に、
開いたままの3DSがある。
充電ランプだけ、
ぼんやり点いている。
昨日、
押し入れから出した。
理由は、
もう覚えていない。
たぶん、
Switch2のニュースを見たからだ。
トモコレ新作。
SNSで流れてきた。
「昔の恋人のMii残ってた」
「友達が独身のままだった」
「亡くなった祖父が元気だった」
そんな投稿を見て、
なんとなく、
充電した。
それだけだった。
冷蔵庫にプリンを入れる。
一つだけ取り出す。
ベッドに腰を下ろす。
3DSを開く。
起動音。
古い液晶の光。
少し遅れて、
島のBGM。
——ああ。
これだ。
この呑気な曲。
高校生の頃、
ずっと聞いていた。
画面の中で、
Miiたちが歩いている。
変な帽子。
意味不明な服。
憧れだった先輩。
疎遠になった友達。
初めて告白したあの人。
もう名前を見ても、
声が思い出せない人もいる。
その中を、
母が歩いていた。
ピンク色のカーディガン。
丸い目。
少しだけ吊った眉。
似てない。
全然似てないのに、
母だった。
Miiの母が、
こちらに気づく。
画面が切り替わる。
「おなかが空きました…」
その瞬間、
息が止まる。
タッチペンがないから、
指で操作する。
プリンを渡す。
母のMiiが、
妙に嬉しそうな顔をする。
「ありがとうございます。」
「きっつい!きっつい!」
母の口癖だった。
仕事で疲れた時も、
スーパーの袋が重い時も、
よく言っていた。
Miiが、
画面の中でプリンを食べる。
普通に。
当たり前みたいに。
喉が動く。
飲み込む。
笑う。
その瞬間、
突然わかった。
ああ、
私は。
母が死んだ時、
何もしていない。
病院にも行けなかった。
隔離だった。
「面会はできません」
電話だけだった。
最後の顔も、
ちゃんと見ていない。
葬式も、
変だった。
消毒。
人数制限。
マスク。
全部、
事務処理みたいだった。
だから、
泣かなかった。
泣けなかった。
実感がなかった。
でも今。
古い3DSの中で、
母がプリンを食べている。
もう現実では、
食べられなかったはずなのに。
急に、
喉の奥が潰れる。
息が変になる。
視界が歪む。
「……ごめん」
声が出た瞬間、
涙が落ちた。
止まらなかった。
ベッドの上に伏せる。
トモコレのBGMだけが、
ずっと明るい。
母のMiiが、
また喋る。
「きっつい!きっつい!」
昔と同じ声で。
私は顔を押しつけたまま、
嗚咽した。
五年遅れで、
やっと泣いた。




