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キアロスクーロ ブイヤベース

課題がうまくいった。

教授はご機嫌だった。


浮かれた夜は、北へ足が向く。

理由はない。理由がない方が、長く続く。


キャンパスを背にすると、街は少しだけほどける。

伏見稲荷の裾に広がるあたりは、何かを踏みつけたみたいに、平たく、甘く、広がっている。


間違ってお尻で踏みつけたパンみたいに。

形は崩れているのに、匂いだけ残っている。


抹茶屋を右目に遠ざる、焼き鳥屋と焼き鳥屋に挟まれた、半分だけ開いたシャッター。

ガレージみたいな奥行き。


明かりが漏れている。


なんだこれ、と思う。


看板には「子供食堂」。

匂いがある。


懐かしい匂い。

魚のぶつ切りを煮た、少しだけ乱暴な匂い。


――ブイヤベースだ。


母が美容院で読んだ記事を切り抜いて、家で再現していた。あのときの台所の匂いと同じだ。

うまくいったり、いかなかったりした、あの匂い。


足が止まる。


中を覗くと、人影が一つ見える。



少し迷って、屈んで入る。


「いいですか」


中の男が顔を上げる。

白でも黒でもない顔だと思う。どっちにも寄らない。


「ああ、座れ」


カウンターの端に座る。

スマホを置く。

通知が二つ、光っている。

見ない。


湯気が上がる。

顔が隠れる。


隠れている間に、だいたいのことは決まる気がする。


器を受け取るとき、少しだけ迷う。


マスターが言った。




つまるところ、ここは子供食堂だ。

そして、遠目に私が中学生に見えた。


大学生はバイトして、牛丼でも食べればいい。

そういう場所じゃない。

今日は特別だ。


わかっている。


でも――


食べたかったのだ。

この、変なシチュエーションごと。


焼き鳥屋に挟まれた半開きのシャッターも、

名前のない店も、

知らない男が出すスープも。


全部込みで、口に入れてみたかった。



「匂いが、家にちょっと似てて」


「記憶は雑だからな。だいたいではまる」


器が置かれる。

赤い。

透明に近い。


中身が見える。


一口飲む。


すっぱい。

でも、すぐに丸くなる。


どこがどう効いてるのかは、わからない。

でも、飲める。


「おいしいです」


「そうか」


「最近、バロックばっか見てるんです」


自分でも、唐突だと思う。


「絵か」


「はい。歴史遺産のゼミで扱ってて。修復記録とか読むんですけど、元の構図の話になると、やっぱり面白くて」


スープの表面に、薄く油が浮いている。

光を拾って、揺れる。


「ジェンティレスキ、好きで」


少しだけ、間がある。


「暴力的なんですけど、きれいで」


器を持つ手が、少し温まっている。


「ちゃんと“やるべきことをやってる”感じがするというか」


「やるべきこと、か」


「はい。迷いがないんです。だから納得しちゃう」


マスターは何も言わない。

鍋に視線を戻す。


かき混ぜない。

ただ、見ている。


「これも、似てます」


「何がだ」


「見えてるところより、見えてないところで決まってる感じ」


言ってから、少しだけ恥ずかしい。


でも、間違ってはいない気もする。


「なんで透明なんですか」


「濁ると疑われる」


「でも、全部見えてるわけじゃないですよね」


「全部見せる必要はない」


少しだけ、間がある。


「見えてる分で、人は納得する」


スマホが震える。

画面が光る。


同じ文面が並んでいる。

少しずつ違う言い方で、同じことを聞いている。


閉じる。

伏せる。


「皿洗いとか、やります」


口が勝手に動く。


「宣伝もします。SNSとかで。ほら、わたし、これでも今どきだし」


軽いと思う。

言葉が浮いている。


嘘だ。


皿洗いはいつも適当だし、宣伝もしたことがない。

“やれる感じ”の言い方を、真似しただけだ。


男は、少しだけ眉を上げる。

マスカロンみたい。

変な顔。


笑っているわけでも、困っているわけでもない。

計っているみたいな顔。


「なるほど」


それだけ言う。


何が“なるほど”なのかは、わからない。


でも、間違ってはいない気がする。


「マスターさんって、料理人なんですか」


「そう見えるならな」


「……マスターさん、って長いから。マッサンって呼んでもいいですか」


「好きにしろ」


「おかわり、いいですか」


「ああ」


器を差し出す。

さっきよりも、ためらいがない。


同じ鍋から、同じように注がれる。


同じもののはずなのに、少し違う味がする。


ここ、いいな、と思う。


理由はうまく言えない。

でも、納得はできる。


納得できることは、だいたい正しい。


光が当たっているところだけが、正しいみたいに見える絵。

ゼミで見たスライドを思い出す。


影の部分は、後から意味をつけられる。


スープは、ちょうどいい温度だった。


「ルイユ、入れるか?」

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