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禁足

朝の飛火野は、まだ色を持っていなかった。

白とも灰ともつかない空気が、草の上に薄く積もっている。

私は若宮本殿へ向かう近道を歩きながら、

いつものように自分の呼吸音が気になりはじめていた。


しゃら……しゃら……

髪飾りが揺れるたび、小さな金具がぶつかり合う音が耳に刺さる。

誰も気にしない音なのに、

私にとっては、世界の輪郭を狂わせるくらい大きい。


こんな日は、思考が勝手に膨らむ。

自分の中で増殖して、

外へ出る前に重く発酵してしまう。

口を開けば言葉が粉々に崩れるようで、

結局いつも沈黙に逃げる。


その沈黙のまま、

御蓋山の方から風が降りてくる道を曲がったとき、

匂いが、ふっと変わった。


湿った土と、温かい獣の皮膚の匂い。

それにかすかに鉄の匂いが混じる。

春日山原始林の境界ならではの、

“生まれたて”の気配。


足が勝手に止まった。


耳を澄ませると、

森の奥で何かが震えていた。

落ちた葉を踏むほどの音でもない。

けれど私の耳には、

その震えが地面から体に直接伝わってくるようだった。

過敏な耳が、拾いたくないものまで拾ってしまう。


髪飾りの音を両指でそっと押さえた。

あの些細な音でさえ、

今の気配を壊してしまいそうだった。


霧の薄いところを凝視すると、

若宮の裏手、

春日山遊歩道へ繋がる手前の“禁足地の縁”に、

揺れる影があった。


子鹿だった。


生まれたて。

湿った毛が光を吸い込み、

身体の震えが土の膜を細かく震わせる。


倒れそうで、折れそうで、

それでも前へ──理由もなく──滲み出していく。


母鹿が数メートル奥にいた。

御蓋山の影を背負いながら、

私の存在などないかのように、

ただじっと深く黒い眼で、子の立ち上がりを待っている。


世界の音がほとんど消えていた。

鳥の声も、遠くの観光客の足音も、


あるのは、

子鹿の震えが作る“わずかな土のざわめき”だけ。


それが私の耳には、

世界の中心みたいに響いた。


──立とうとしているのではない。

──立たされているわけでもない。

──立つという出来事が、身体の奥から溢れ出る。


息を呑むと、湿った森の匂いが胸を刺した。

生まれるという現象は、

どうしてこんなに静かで、

どうしてこんなに真っ直ぐで、

どうしてこんなに雄弁なのだろう。


子鹿が一度倒れ、

また震え、

そして、立った。


御蓋山の光が、

ほんの少しだけ濃くなったように感じられた。


私はようやく髪飾りから手を離した。

揺れた金具の しゃら…… という音が、

さっきまでよりほんの少しだけ優しく聞こえた。


今日も社務所では、

決められた挨拶をし、

他の巫女たちと同じように振る舞うだろう。


けれど私の胸の奥では、

春日山の外部子宮のような静寂の中で見た

“言葉の外側の出来事”が、

ずっと沈黙の温度を保ち続ける。


それは誰にも語られない。

うまく言葉に出来ない気がするから。

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